龍馬伝から富岡製糸場への道最終章 その二 | 繭家の人生こぼれ繭

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人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

民主党代表選(戦)?も終わりました、と言うより日本が終わりましたかね...

横井小楠と坂本龍馬でしたら、この戦いをどう見た事でしょうか、日本の行く末を...
 
龍馬の歌
君がため捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行く末え

横井小楠/国是三論 
『(天)富国論』『(地)強兵論』『(人)士道』の三論からなっている。「富国論」は、万国通商の利を説き、開国の大計を立てることが必要と論じている。「強兵論」は、海外の諸国をも相手にしなければならない今日の時勢では、孤島の日本を守るには海軍を強くする他に道はないことを論じている。「士道」は、天下国家を治めるには、人材が必要で、人材を得るには、文武の道によるほかはないことを論じている。つまり、修己治人の道を身につけ、徳性にもとづき、道理に従って正しく導く文の道と、心を治め、肝を練り、その心を武術にためし政治に試みてみるのが武の道であることを論じている。小楠は1860年に越前藩に提出された『国是三論』の中で,政府自ら農産試験場を作り、養蚕、製糸、農具などの器械化につとめ、同時に原材料、労賃、肥料などの費用を政府が無利子で貸与することを提案している。これらの政府負担は、政府自体が海外輸出を独占して利益を得ればよいというのである。後発資本主義国の工業化の二つのタイプ、すなわち輸出志向工業化と輸出代替工業化のうち、特産品の生産増加を政府主導で行なう前者の工業化を目指すものであった。これらの殖産興業論は越前藩の採用するところとなったが、横井は開国か攘夷かをめぐる日本全体の動向を念頭にこの『三論』を書いている。小楠の『殖産興業論」の主体は、越前藩ではなく、中央政府だったのである。
『殖産興業論』が日本政府の中心政策になるのは、明治6年(1873年)の大久保利通の内務省創設以後であり、その際には横井小楠の議論にはなかった輸入代替工業化も重視された。有名な「官営工場」の設立による、輸入綿糸などの国産化である。しかし、輸入代替工業化にもその外貨を得るため特産品の輸出は大前提であり、この面では大久保利通は横井小楠のよき後継者だったと言えよう。(当時の「上からの工業化」の東の横綱が生糸生産の器械化で、西の横綱が国産綿糸の大量生産である)
横井小楠の「殖産興業」論の特徴は、それが欧米文明の吸収としてだけでなく、中国太古の堯・舜・夏・殷・周(堯舜三代)の理想社会における歴史的伝統として主張されている点にあった。小楠によれば、儒教で言う「格物究理」とは、本来は自然の理を究明してそれに「工夫」を加え、生産を増やし、民の生活を豊かにするものであった。それを後世の朱子学が、人間社会を含めた宇宙の静体的な関係を究める抽象的な思弁に変えてしまったのである。小楠の言葉で言えば、儒教本来の姿は、『山川、草木、鳥獣、貨物にいたるまで格物の用を尽くして、地を開き野を経し、厚生利用いたらざる事なし』というもので、そのまま彼の『殖産興業」論のもとだったのである『沼山閑話」1865年秋』
 

横井小楠/国是七条(文久2年1863年)
1.大将軍上洛して列世の無礼を謝せ。
1.諸侯の参勤を止めて述職となせ。
1.諸侯の室家を帰せ。
1.外様・譜代にかぎらず賢をえらびて政官となせ。
1.大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ。
1.海軍をおこし兵威を強くせよ。
1.相対交易をやめ官交易となせ。

 坂本龍馬/船中八策(慶応3年1867年6月9日)
1.天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべきこと。
1.上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事。
1.有材の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官   を除くべき事。
1.外国の交際広く公議をとり、新たに至当の規約を立つべき事。
1.古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事。
1.海軍よろしく拡張すべき事。
1.御親兵を置き帝都を守衛せしむべき事。
1.金銀物価よろしく外国と平均の法を設くべき事。
龍馬はこの年の11月1日新政府の財政担当として由利公正を招くべく福井に赴き、新政府の財政のあり方について考えを聞き感服する。...これから2週間後の11月15日に暗殺される。

 
 由利公正/五箇条の御誓文の草案(慶応4年1868年)
1.庶民志を遂げ人心をして倦まさらしむるを欲す。
1.士民心を一つにし盛んに経綸を行ふを要す。
1.知識を世界に求め広く皇基を振起すへし。
1.貢士期限を以って賢才に譲るべし。
1.万機公論に決し私に論ずるなかれ。

由利公正は藩論の対立から文久3年(1864)8月より蟄居の処分を受けて幽閉された生活を行なっていた。そこへ突然龍馬の訪問であった。しかも新政府に財政担当して参加して欲しいとの要請であった。新政府の参与となった由利公正は資金作りに太政官札を発行する事とした、太政官札を通用させるためには新政府の信用が必要である。そのためには新政府の方針を広く世間に示すことだと主張、自ら草案を作り示した。