今、おそらく「日本で一番高いチョコ」というのを買う機会に恵まれた。
今回、とある学校でお世話になったとある職員さんが退職することになって、
つながりのある生徒連中で金を出し合って贈り物を贈ろうということになった。
普段、自分では金を出して買わないようなものを、あえて贈ってみよう。
この時季だから、チョコはどうか。という話になった。
自称「ペロリすと」の私としては、食に関することは垣根を越えて積極的に取り組まねばならない、
と胸に落とし込み、日々精進である。
飲食店のチョイスや予約、このような買出しには、積極的に手を挙げて、参戦している。
「超高級チョコ」「最高級チョコ」などとググって、とりあえずタカソな店をチョイス。
最終的に2店舗選んだのだが、どっちも職場の近くの東京ミッドタウンにありやがって、
ますます普段いる地域が自分にもっとも不適なことを再確認。
NoKA
まるで宝石屋と見まごうばかりの店構えである。
磨き抜かれたショーケースに鎮座ましますちょこさまさま。
店員はうやうやしく白い手袋でおちょこさまをお取り扱い。
オットは、ヨコの赤いソファーで、過剰なちょこショーを横目で見て鼻息を荒くしていた。
上の4粒3,000円也のリサーチで行ったのだが、
ミルクチョコ入り新製品4粒3,200円という強者が登場していた…。
小刻みにボるのは、海外の公的でないみやげ物屋などでもよく見る光景である。
経済テクニックの基本に貧富の差は無いと実感し、うまうま手玉にとられて購入。
も少しお安くて親しみやすいものをと、 1階の JEAN-PAUL HEVIN へ
(じゃんぽーるえばん と読む。ひらがなのほうが可愛いと思うし)
ちっこいチョコを売るのに、実際四畳半以上の敷地は必要ないのだが、
この時季は女子が群れて、店内はほっとくとみちみちの無法地帯になる。
それを案ずる店側は入口で入場制限をし、アフレた客は外で並ぶことになる。
ショーウィンドウの中のちょこをみながら、黒人のコドモは指をくわえて…
なんてことはないのだが、並んでいるうちに、
「なぜココでなぜ私はなぜ並んでいるのか?」という哲学的問いがどうしても湧き上がってしまうのは否めない。
ココにいたって、オットはふっと姿を消した。
チョコ整列への人間的根源的拒否とみなし、私ひとりで並んで店内へ。
こんな感じの10個入りバージョンを、一応セレクトしてつめてもらった。
1個平均300円。赤いハートは500円。
女子の贈るきゃわいいハートはかのように高額なものなのだな。男性は心せよ。
こんなトコに来て、いっこも口に入れないのは、ぺろりストとしての名折れである。
そんなわけでハウス用板チョコを購入。
7㎝四方で600円…1かけ50円である。
自宅でオットと1かけずつ拝みながら喰ったが、「明治の板チョコをもりもり喰うほうが潔く旨い」とのご託宣。
私も、あまりカカオの香りがしないな、と思った。なんだかボヤンとした味。
その後、何となくデパ地下とかで、ばれんたいん便乗してチョコ試食などしたのだが、
イタリア産の何とか言うメーカーのカカオ70%のヤツが、
甘くないカカオがぶわッと薫って、たいへん美味であった。
ま、それもこの時季だから高額ではあったが。
ご馳走するだの、贈答だのという世界は、金額がその価値を表すものである、という一部価値観がある。
いくら相手を考え、気持ちのこもった、気の利いたものでも、原価ほぼ0円のものでは手放しで喜ばれない。
受け取る側にはそういう人種もいると前提にすれば、贈る側は負のスパイラルに踏み込み、高額な洋菓子などをやり取りする世界が形成される。
わたしはその意見には普段まっこう反対なのだが、
「こんなものにこんな金をかけてッ!」というジョークの域に達するなら、
それはむしろ江戸の粋ともいえるのではないか、という文学的自虐的試み(?)なのである。
今回は、そんなMなメンツがそろったので、なしえた贈答品であった。
是と出るか非と出るか。相手しだい。
でも、結局本人が一番喜んでくれたのは、
「招き猫が画面いっぱいに山と並んだめでたい絵葉書」に、みんなで書いた寄せ書きだった。
私んちにあったものだから、原価0~せいぜい150円。あとはみんなの気持ちである。
プレゼントを贈る側の面子にも、これがいちばん受けた…。
最高級チョコをもらってうれしい人は、
最高級チョコを自分ひとりの自腹で贈るだけの価値観・金銭水準の人なんだろう。
ま、こんなもんなんだって。



