台湾食べっぱなし(小吃と台湾華語) -11ページ目

台湾食べっぱなし(小吃と台湾華語)

台湾に住むことになっていろいろと、気持ちよかったりわるかったり。楽になったり辛かったり。
食べ物のことが中心です。


ごぶさたしております。

コミュニケーションのない新会社、やっと明鏡止水の心境で仕事をするのに慣れました。

丸一年かかったわ~。


慣れたきっかけは「忙しくなったこと」。

ひとはやっぱり適度に忙しいほうが余分なことを考えず、

目の前のことに没頭していられる時間というものが幸せなのですね。

転職の合間のモラトリアム期に「仕事なんてなくていい」とほざいた私に、

「でもやぱし仕事がないと淋しくなるのがヒトだ」といってくれたきりん本さんの言葉を思い出します。



自分では、どのくらい商業出版に耐える本を作れるのか、

この会社で求められるミッションペースでそれが可能なのか、

試してみたかったし、実証したかった。周りもそれで安心できるとおもうから。


課題は進めば進むほど出てくるもので、

昔ならその時点で焦って、私には無理、って思っただろうけど、

今回は「だらだらするときがあっても、続けていれば、なにかが身につく。わかる」と、

わかっているので、ストレスため込まないようにしています。



で、この半年くらいの間、出しまくりました。本。

半年で5冊というのは他の会社では異様なペースらしい。

もちろん書いたんじゃなくて、編集担当したんです。

そのうちの一冊がちょっと当たりました。


よくわかる筋肉・関節の動きとしくみ―人体の「動き」のメカニズムを図解で学ぶ! 身体運動の不思議.../中村 和志
¥1,575
Amazon.co.jp

予想してたターゲット層より、ずっとたくさんのジャンルのヒトが買ってくれてるらしいです。

皆さんボディコンシャス。


内容は入門だから、介護士さんとか、福祉関係者とか、

これから運動関係を勉強してみようかな?っていう若い方にも読めます。


あんまり興味ある人はいないと思いますが、

一応告知。



このほかに、eco検定の問題集とか、美容業界の本とか、はては冷凍技術の本なんていうのも出しました。

恐るべきノンジャンル。


編集者だって、内容の全てを完璧にわかるなんて無理(だって専門書だもん)だけど、

読みながら校閲して調べているのも楽しく、表現の幅も広げたいなー、と思っています。



電子書籍になると、紙の質感とか、『本を読んでる』アナログさがなくなって淋しいなー。

単に情報収集だけなら、webでいいものね。


情報の種類や質は、ニュース以外実際もう出尽くしているんですね。

あとは、一冊の本としてどう編むか、ということが書籍の意義。

だとすれば、その表現形態の中に当然モノとしての『本』の役割が残るジャンルがあるはず。


たぶん、最終的に統合するにしても、

電子書籍に移行するジャンル(マンガ・ビジネス書・雑誌・新聞)と、

そうでないジャンルが分かれるんじゃないかな。



などとつらつら考えつつ、ブログを緩やかに再開できればいいな、と思っております。



ペタしてね


全国民総虚弱児の昨今、マスクはみなさんよき友達である。
ワタシはマスクの息苦しさがキライで、マスクするならうがいする、というタイプなのだが、

インフルエンザが落ち着いたかな?と思われるいまになっても、

電車の中では1割くらいがマスクをしている。


ウイルス感染の段になって、バカ売れヒット商品になったのがサージカルマスクである。
ホントかウソかは見えないのだが、細菌より遙かに小さいウイルスを通さないという鉄壁マスク。
それでどうして息ができているのか、私はいまだにわからない。


電車の中で見かける度に疑問なのが、サージカルマスクのジャバラを広げず、鼻のワイヤーも曲げず、

チョコのよに一枚板のまま顔面下方にあてがっている方である。
鼻を支点にして、マスク板がせいぜいU字に折れ曲がり、小鼻周辺の上下ラインは直通モードである。

私はその上から下が見えたことがある。

マスクをかけているということは、多少なりとも体調に配慮しているのだろうが、

あのように脇を大開放していては、ウイルスどころか指もつっこめそうでたいへん心配。


そんな人を見ながら、

これはどういう理由でこんなイミナシな状況が生み出されたのかを妄想するのが私の悪い癖(右京さん風)。



●サージカルマスクは広げて密着させてなんボということを知らない


非常に考えうることだ。
体調管理という流行に乗って購入して、ただ漫然と着用している場合に頻発しそうだ。
でも、こういった付け方をしているのは、概して非常に賢そうなみなさまである。
セレブな装いだったり、日経新聞など読んでいるバリッとしたビジネスマン風な人も多いから、

十中八九こんなつまらん理由ではないだろう。ぐふふ。



●非常に几帳面なためにマスクは広げるべきではない、と考えている


キョーツケするのが日常茶飯事とか、机の辺に沿ってモノを置かないと気が済まないとか、

座っているときに膝が開いてはならないとか、そういう神経症的な方の切ない性か。

でもみなさん、わりとしどけなく座ってらっしゃいますがね。

●マスクを広げたら息苦しいから広げない


なかなかもっともなようだが、

そもそもなんのためにマスクをしているのか、という矛盾には目をつぶる方向である。
こういったオモシロ盲点というのは、マスクに限らずあるものなのだ。



●むしろ広げずにつけることによって、ひ弱な現代社会へのアンチテーゼとしている


ロックな気概が大変好ましい。

忌野清志郎なきあと、こういった逆説的で笑えるメッセージが社会には必要なんである。

がんばってほしい。




もう、こういう超くだらない妄想あそびは、40女なので…

来るべき認知症に向けてますます活かしていきたいと思う所存です。


自分の勘なんて、信じていなかった。
馬券ははずれるし、私に惚れていると確信して飛び込んでいった男は、私のことを好きじゃなかった。



オットは、勘は、自分の氷山の一角なんだ、という。
自分がかつて触れたけれど覚えていない知識・経験・風景・音・におい・感触、

血に流れているDNA、文化的・宗教的意識、もしかして前世?

それらを全て総合して、はじき出されたアンサーが、「勘」なのだと。


人は、自分が見ていると思っているモノだけを、見ているのではない。

意識にすらない全てを取り混ぜて、人は自分の景色を作っている。

だから、意識の上で考えるな。自分の来し方を信じろ、と。


オットの言葉は自分の競馬好きを正当化する材料だったかもしれないのだけれど、

彼がそう信じているのは確かだ。
生き方も、このロジカルシンキングのご時世にあり得ない、勘フィーリングなのであった。



哲学者のごとく考え込んだわけでもない私だが、
アタマで意識で考えることの限界は、このところ、痛みとともに体感する。
こんな限界がわかった、それはそれなりに考え込んできた功績なのだろうとは思うが、
結局、わかりゃしねえというのが本格的にわかった、という、だけのことである。



では、人にはなにが残るか。
訳が分からず沸き上がってくる、勘・感情、そんなものではないのか。


高齢者の仕事をしていて、認知症になった彼らが最後に持っていくのは感情だと知った。
いい気分で話した。幸せなひとときだった。イヤな空気だった。寂しい感じがした。
そういう温度や湿度しか、結局はもっていけない。

結局、覚えていること、知っていることは、生き物の尊厳にはあまり影響がない。
そこに在り、わずかながらも感じていることが、立派な、人の尊厳であると、はっきりわかる。


感情と勘は違う、といわれるかもしれないが、私はこの二つにさして差はない、と思う。
理由などない、ただそう感じる。それだけのことが、わりと大したことなのだ。


結局、認知症の彼らは、なにもなくなってしまったのではない。

大切なものだけが残った。

人生をわざわざふりかえらずとも、死の瞬間になんとなくイイ感じがして逝けたなら、

そこにおいてひとつの人生は相当の価値を帯びたんじゃないか。



自分の勘を、感情を信じない、ということは、自分の来し方を信じない、ということなのかもしれない。
すぴりっちゅある  とかは、人間の手に負えないものを卑俗に引きずり落としてしまって、

まったく美しくないのでキライだけれども、
自分の中に知らず根付き、子どものように他人めいて育ててきたこの感覚とだけは、

寄り添って生きていたいと思うのである。



そんなわけで、とりあえず人は、勘や感情に従って生きていくしかないんじゃないか、と思う。
もちろん、ちゃんと考えてからね。