ペナン旅②-イギリスの海峡植民地ペナン | 迷えるオッサンの老惨禄

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チェンマイ18年の日誌を中心にやってきましたが、2021年9月帰国、タイトルを変更したいました。

イギリスの海峡植民地ペナン

 

●昨日『覆面女郎・三態』を更新した際『泥濘と黒鼠女の群れるリゾートペナン』を例に上げたが、どうせリブログするなら『海峡植民地ペナン』を再考してみるかと思った次第・・。

 

 

 
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ペナン島はマレー半島(マレーシア)とスマトラ島(インドネシア)を隔てるマラッカ海峡のインド洋出口に位置する淡路島の半分ほどの小島で、対岸のマレー半島とは幅3キロの海峡で対峙している。
 
なお、ペナン島の名はこの島に自生するビンロウヤシの現地語名ピコック・ピナンに由来し、今日でもピナンと発音する場合が多い。
 

 

ペナン島は古くから東西交易(海のシルクロード)の要衝を占める中継港として知られ、7世紀以降はアラブ商人が来訪してイスラム化が進行・・・・、
 
11世紀以降はマレー半島のイスラム首長国ケダ王国(上図参照)の支配下に置かれてきた。
ヨーロッパ人の渡来は16世紀のポルトガル人に始まるが、モンスーンの風待ち港としてペナン島に目を付けたのはイギリス人F.ライトであった。
 
彼は1786年にケダ王国に年間3万ドルと英海軍の支援と交換にペナン島の割譲に成功すると、同時に移民団を上陸させプリンスオブウェールズ島と命名して植民、首都名を英国王に因んでジョージタウンと命名した。
 
以来ペナン島はマラッカ海峡の自由貿易港として発展、次いでイギリスは1795年にマラッカ海峡中央のマラッカを占領、さらに1819年にはマラッカ海峡西口(太平洋出口)のシンガポールを占領した。
 
その結果、1826年にはペナン・マラッカ・シンガポールの3つの港湾を合わせた海峡植民地が設立され、ジョージタウンに首都がおかれたが、19世紀以降は南のインド洋口に近いシンガポールが急速に発展、1832年以降は首都もシンガポールに遷都された。
 
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 以来ペナン島はシンガポールにその発展を奪われたが、ジョージタウンにはイギリス植民地時代の文化遺産が多く残され、2008年には海峡植民地第3の都市マラッカとともに世界文化遺産に登録されている。
 

 

その象徴がF.ライト上陸地点に築かれたコーンウォリス要塞画像)で、城壁の上には幾つかの砲門が海峡を睨み、広い構内には弾薬庫や灯台、旧い教会などが往時を偲ばせている。
 
 
 
 
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私が一番印象に残ったのは要塞の一角にある旧英国教会(画像)で、教会の象徴である十字架は取り外され、がらんどうの屋内はTVで見た拷問室を髣髴させた。
 
おそらくこれらはマレーシア独立後イスラム教徒によって撤去されたモノだろうが、強面の要塞と優しい顔をした教会、植民地時代を象徴する表裏二つの顔がどうも重なって見えた。
 
要塞の傍にはかつての栄華を示すシティホールやセントジョージ教会など白亜の建造物も多いが、シティホール市内を見下ろす60階建ての現市庁舎コムタビル同様にイギリス植民地臭が漂って・・どうも私には胡散臭くなじめなかった。
 
 
 
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最後は、ペナンの名前の由来となったビンロウヤシのピコック・ピナン(画像)、植民地臭フンプンの前記世界遺産よりもはるかに生命力が感じられました。
 
 
ペナン旅③中国華僑の大富豪と大貧民へ続く
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゃんちゃん