7月4日
第2回目のコロナワクチン接種が無事終わりました。



高級老人ホーム「サンシティ宝塚」併設のクリニック
緑に囲まれ、水の流れる音が聞こえる落ち着いた雰囲気です


インターネット予約が満杯でできなくイライラ
と、友人から電話あり、
日曜枠で、今申し込めるって!早く行くのよ!」
で、川向こうのクリニックを覗くと、夫婦二人分
かかりつけ医の申し込みに成功
もしこの枠がなかったら、もう一か月待たされるところでした。

6月13日の第1回目より3週間後
同じ6人のメンバーが同じ時間に集合
瀟洒な藤棚の下で待ち、先生の話を聞き、
滞りなく終わりました。
行きはタクシーで、帰りは西山小学校、なかよし橋経由で
夫と二人で徒歩で帰宅しました。
「ワクチン、終わった!!万歳」の気分。
翌日は安静にして、夜に37度までねつが上がりましたが
みずをガブガブのんで体温下がりました。

奥さんが寝たきりで、ご主人が介護の知り合いのご夫婦が
先日、ふたりともコロナで入院中との話を聞き、
身近なところに危険が迫り、怖かったのです。
今、大阪、兵庫は減少傾向、兵庫は特に少なくなり、一安心です。
オリンピックに向かい、これからコロナ感染どうなるのでしょう?




上天気の12月2日、西宮市西安寺で
「音遊人」の発表会がありました。

密閉されたコンサートホールに比べると
お寺は、素晴らしい響きを備えた 開放された建物


コロナ禍でも安心して集える空間です。
広い本堂にはグランド・ピアノが備えられ素晴らしい音響のなか
荘厳な仏さまに見守られて


久しぶりにマスクをはずした アンサンブルのみなさんが 元気よく


時には、楽しい「振り」も加えて

歌いました。

扉をいっぱいに開けて 換気を十分に行い
次は、私たち「ソロ」のグループの番です

野上彰作詞 小林秀雄作曲「落葉松」を 山下さんが 格調高く


鎌田忠良作詞 中田喜直作曲「霧と話した」を 中島さんが 女学生のように可憐に


中田喜直作曲「むこうむこう」を 岩佐さんが 軽やかに


母を題材にした歌から3曲:
カンツォ―ネ「マンマ」を
岡田さんが イタリア語を見事に駆使して明快に


ドヴォルザーク作曲「母が教え給いし歌」を 小池さんが重厚に


そして竹久夢二作詞、小松耕輔作曲「母」を 私が:

かつて母が着て30年前に私のサイズに作り直してくれた着物を着て
若き日の母を思い出しながら、
歌いました。

コロナ禍で数か月中止になった日もあったけれど
「密」を避けた歌のレッスンのご指導のもと
素晴らしいピアノの伴奏をしてくださった
中村文美先生、


おかげで、みんな無事に歌うことができました。
ありがとうございました。






1978年、ドイツから 一枚の絵葉書が 届いた。
宛名は、SAGA  MATSUKAWAYA 私の名前 があるのみ
「 ドイツの大学に赴任中です。元気ですか?・・」
中学・高校の先輩が 思い出したように 書いてよこしたのだ。
一年間の文通の末、
ドイツに来ないか・・という成り行きに
運良くば、ドイツで暮らせるかもしれない!
の ルンルン気分に乗って
パリで お見合いをすることになった。
ドイツからの列車は すべてターミナル・パリ東駅に到着する。
プラットフォームで列車から降りてくる彼を待ち
駅のカフェで 顔を合わせた
焼き立てのクロワッサンとカフェオレの朝食をとり
パリの街を散歩した。
途中、お上りさんの多いモンマルトル広場で
彼のポケットから巧みに財布を盗もうとするスリにでくわし
思わず身を躱して、以後は慎重に行動した。



私のパリの寄宿先ペルネティ街の禅寺で
弟子丸泰仙老師が 待っていた。
「どうだった?」と訊いてくる
「いい人みたい・・」
つぶやいた途端
サッと身を乗り出し
「いいか、こういうことには機運がある」と
面前で 私をギロリと睨み
「さっさと決めろよ」
と、ウイスキーグラスを勢いよく掲げ
「まやの結婚に 乾杯!」
と、話を勧め
「お見合い」から「結婚」の方向へ 一気に発進した。
と、
信者のフランス人マダムが、
「婚約指輪ならヴァンドーム広場へ行きなさい。いい宝飾店があるわ」
と教えてくれた。
モンパルナスの下町から 華やかなヴァンドーム広場へ
「カルティエ」は通り過ぎ、
一番地の「モラビト」で
赤いルビーと白い粒ダイヤを細工した一番小さな指輪を選んだ。



支払いはというと、
当時カードはまだ普及せず
「現金で払っていいですか?」
彼は 腹巻からお札を慎重に取り出し
ドイツ・マルクでバーンと支払った。
大学での一か月分のお給料だったらしい・・・
店員さんは「強いドイツマルク」の支払いに「オー!」と喜んだ。
婚約相手は、もう昔の坊主頭で下駄履いてた貧乏学生ではない・・
私は少し安心した。
一歩前進した気分で
彼は ドイツへ戻り、
私は 指輪をはめて帰国した。
翌年の1980年2月10日、
私たちは、佐賀市のホテル「ニューオータニ佐賀」で挙式した。
写真は、
祝いの紫の垂れ幕が掛けられた実家「松川屋」の玄関先で 
松模様の留袖姿の母と 白無垢の花嫁姿の私



結婚式の後、京都に立ち寄り
伊丹空港から 成田空港経由で フランクフルト空港へ
スーツケースひとつで
彼について
大学の町ハイデルベルグへ向かった。



母の若き日の留袖は、品よく豪華で色彩豊か



結婚した私に、その留袖を 私のサイズに作り直して 譲り与えてくれた
弟の結婚式の日に家族と記念撮影


夫は、学生たちから仲人を頼まることがあり、その都度この留袖は活躍した。
娘の結婚は 家族の顔合わせだけで 披露宴はなかった
息子が結婚する時は、この留袖は私には派手すぎる、
母の晩年の地味な留袖を作り直すか、新たに探すか・・
コロナ禍の今、結婚披露宴はキャンセルが続いている
もう留袖を着る機会は ないかもしれない。
上海市の最も有名な観光名所はどこだろう?
黄浦江そいにある堤防遊歩道
対岸の浦東新区に高層ビル群が聳え立つ、ここ?


そう、ツアーの記念撮影場所になる、ここ
上海の繁栄の新景観が一望できる、ここ


と、
ツアーガイドの黄さんは、みんなをつれて黙って歩き始めた
此岸側は、ヨーロッパを彷彿させる重厚な洋風建築が並ぶ


裏通りをみんなで歩いて


とある瀟洒な広い庭園のある白い洋館の門の前で、止まった
向かい側には、鉄橋が見える
「ここをよく見てくださいよ」
黄さんは静かに言う
「もっと門の中に入って、よく見て」


「イギリス大使館」です
深刻な口調で
「私は、みなさんにお話ししなければならないことがあります」
と言った
この一週間、明るく建設的に、中国3000年の歴史をガイドしてくれた黄さん
急に低姿勢に、話し辛そうに、口ごもる
と、
ツアーの最長老で建築家の髭のおじいさんが
「アヘン戦争だろう?」
と、言った
「中国人と犬は、この橋を渡れなかった、ここは中国人立ち入り禁止の租界だ」
「え、みなさん、知ってるんですか?」
みんな、うなずいた
と、
黄さんは、それ以上、何も語らなかった


19世紀、
イギリスは、
植民地インドで製造したアヘンを清に輸出して、巨額の富を得ていた。
清がアヘンの禁輸を断行すると、
イギリスは、アヘン戦争を起こし、
イギリスの勝利に終わった。
1842年、不平等条約で名高い「南京条約」を結び、
この外灘地区に、特権的な外国人居留地「租界」を作っのだ
「外白渡橋」は、1907年竣工の中国初の鉄橋
当時、中国人は渡ることを禁止された「租界」を結ぶ橋なのだ