1976年、鬼才、マーチン・スコセッシ監督が世に放った問題作「タクシードライバー」。
この映画は、未来を予見していた!
■「タクシードライバー」1976年公開
出演 ロバート・デ・ニーロ ジョディ・フォスターほか
監督 マーチン・スコセッシ
<ストーリー>
元海兵隊員のトラビス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)は、不眠症に悩まされていて、タクシードライバーとして働き始める。トラビスは、ダウンタウンであろうが危険なところでも車を転がしていた。淡々とした毎日、どこか満たされず、彼の心は荒んでいく一方。「ジャンキー、売春婦、ポン引き、売人、こんな奴らをキレイにしてくれる雨はいつ降るんだ?」と日記に記す。
そんなある日、大統領候補パランタイン事務所で働くベッツィーと出会う。彼女をデートに誘うが、あろうことかポルノ専門の映画館に入ってしまう。激昂したベッツィーは彼の前から去っていく。
トラビスは再び混沌とした日々を過ごすことになる。
そんな彼の元に、銃の売人が現れる。
裏のルートから拳銃を仕入れ、射撃の訓練と肉体の強化に励んだ。
「俺に用か? 俺に向かって話しているんだろう? どうなんだ?」トラヴィスは鏡の前で、半狂人と化した自身の鏡像を前に不敵な笑いを浮かべ、あるいは怒りに満ちた表情で瞬時に拳銃を突き出すのであった。
そんな中、トラヴィスは行き付けの食料品店で強盗事件に居合わせた。彼は咄嗟に拳銃を取り出し犯人を撃つ。刑事気取りの彼は偶然にもいつかの少女と会う。アイリス(ジョディ・フォスター)と名乗る少女にトラヴィスは、売春で稼ぎ、学校にも行かない生活を止めるように説得した。アイリスは、恋愛などではなくヒモに騙され利用されていることに気づいていない。しまいには「あんたってsquare(くそまじめなやつ)ね」と、少女にあきれられてしまうトラヴィス。
トラヴィスは浄化作戦を実行に移す。次期大統領候補であるパランタインの集会に現れたトラヴィスの出で立ちは、モヒカンにサングラス。 演説を聞きながら大袈裟に拍手を送る。山上容疑者も安倍元総理の演説を聞きながら拍手をしていた。パランタインを射殺しようとした彼はシークレット・サービスに目撃され人混みの中を逃げ去った。その夜トラヴィスは、アイリスのヒモ、スポーツを撃つ。さらにアイリスの眼前で売春稼業の元締めを立て続けに射殺。自らも銃弾を受けて重傷を負うも、マスコミは彼を一人の少女を裏社会から救った英雄として祭り上げ、アイリスの両親からも彼女はあれ以来真面目に学校に通うようになったと感謝の手紙が来た。
ある夜、タクシーを止め、路上で会社の同僚達と話していると、トラヴィスの車にベッツィーが乗り込む。だが彼女への興味も失せていた彼は、彼女を降ろしたあと、夜の街をタクシーで一人彷徨い続ける。
ここからがこの映画の核心部分である。
怪我を負い入院しているトラビスの元に、アイリスの両親から感謝の手紙が届く。
トラヴィスは、殺人を犯し狂人化しているにも関わらず、世間は彼を少女を救ったと讃え、
英雄のような扱いをする。彼は無罪となり通常の生活に戻る。
これこそが、スコセッシ監督がこの映画に込めた最大にして最高の皮肉ではないかと思う。
どんな理由があっても、殺人を犯してもいいという理由にはならない。
しかしながら、この映画のラストシーンは殺人を正当化するような大どんでん返しで
締めくくっている。
さて、安倍元総理を襲撃した山上容疑者は、一方的に安倍元総理に対し恨みを抱き、演説中に殺害した。トラヴィスがパランタイン候補の演説を狙って殺害しようとしたシーンと重なる。
どんな理由があっても許される行為ではない。
しかしこの行為に対して、こんなことを言う人間が現れている。
「山上容疑者が行ったことは許されることではないが、政治と宗教の結びつきを身を挺して教えてくれた。彼は救世主だ」と。
完全に人の心を逸脱していると思う。
問題定義するなら、弁護士に相談するなど他にいろんな方法があったはずである。
それらのことをせずに凶行に走り最悪の結末となってしまった。
それにしても、スコセッシ監督の未来を予見したような映画作りに脱帽である。
11歳の時、兄に連れられ映画館で観たが全く理解できず、高校生になった時もう一度観て感動した映画である。修学旅行で東京に行った際、周りの連中は原宿のクリームソーダに猫も杓子も集結していた時代に、僕は人知れず渋谷のタワーレコードでこの映画のサントラを購入した。
TDKのカセットテープに吹き込んで何度も何度も聞いた。
今でもたまに観たくなる映画の一本である。