映画監督の石井隆氏が、令和4年5月22日にご逝去された。
監督とは一度しかお会いしたことはないが、生涯忘れられない
とっておきのエピソードがある。
1989年11月、その頃僕は憧れの街、下北沢に住んでいた。
一番街や東通り、下北沢駅前食品市場、通称・闇市など、どこを切り取っても
絵になる街だった。
映画学校を卒業して数年が経過していて、同級生たちは、
みな何かしらの仕事に就いていた。
僕はある小さな制作会社に勤務しており、そこで制作されたVシネの打ち上げで
知り合ったスタイリストに一方的な片思いを寄せていた。
彼女をデートに誘おうと電話しようとするが、途中で受話器を置いてしまう。
まだその頃は、携帯電話もメールもLINEもなく、思いを告げようと思うと、
固定電話に電話するしかない。
♪ ダイヤル回して 手を止めた
I'm just a woman
fall in love.
小林明子 ♪「恋に落ちて」より
でもどこか吹っ切れなくて電話ができなかった。
そんなる日、会社にいると電話が鳴った。
受話器を取ると、シモキタ仲間のエイジからだった。
するといきなり、「今から大月に来れないか?」と藪から棒に言った。
「大月ってどこだよ?」と言うと、「山梨の大月、中央線の」
よくわからないが、「いったいどうしたんだ?」と言った。
「いま映画の仕事してるんだけど、制作進行が逃げちまって、お前やってくんないか?」と
言ってきた。「マジか!」
この頃の映画の現場はこんなことがしょっちゅうだった。
それだけハードな現場ばかりだった。
どうしようか悩んでいると、エイジはこんなことを言った。
「プロデューサーは、相米慎二で、監督は石井隆だぜ」
相米慎二といえば、当時の映画界を背負って立つ存在だった。
石井監督は、前年に公開した「天使のはらわた」「ラブホテル」で脚光を浴びている
新進気鋭の監督だった。
「こりゃやるしかない」と思い、会社の社長にお願いして、2週間休暇をもらった。
社長もよくOKしてくれたと思う。
とにかく明日、朝イチの電車に乗って大月駅まで来いと言われた。
ファーストカットが大月駅だった。
翌日、新宿駅から中央線に乗り大月駅に向かった。
窓外から見える景色が段々と田舎色に染まっていった。
約1時間で到着。車外に出ると、そこは異常な光景が目に飛び込んできた。
野次馬、通勤客、エキストラ、蠢く大勢のスタッフと思える業界人、俳優陣、大型クレーン、
アリフレックスの35ミリカメラ。
助監督やカメラマンの怒号が飛び交い、現場は異様な空気に包まれた鉄火場状態だった。
僕は人混みをかき分け、エイジを探した。
するとどこからともなくエイジが現れ、「おおよく来たな」と言った。
「脚本は」と僕が言うと、「そんなもん後でいい、とにかく人止めしてくれ」と言った。
映画には映り込んではいけないものがあり、例えば、人や車などが入り込まないように、
人止めや車止めを行う。ハリウッドの場合は、本物の警察官がやってくれるが、
日本の警察はそんな協力はしない。したがって、我々制作進行がやらねばならない。
この仕事についた時、いきなり原宿交差点の車を全面ストップしろと言われたことがある。
命懸けで赤橙を振りながら、車の前に現れ、勝手に車を止めるのだ。
こんな危険極まりないことはない。
つくづく映画人は狂っていると思う。
通勤途中の人や車、中には救急車を止めたヤツもいた。
大月駅は通勤ラッシュでごった返していた。
そんな中、「本番いきま〜す」の声と同時に、人の通行を止める。
「すいません、いま映画の撮影中です。ご協力お願いします」と言いながら、
人を止める。好意的な人がほとんどだが、中には因縁つけてくる人もいる。
そんなこんなをやり過ごしながら、なんとかうまくやるのも制作進行の仕事だ。
ファーストカットは、ある売れっ子の若手俳優が電車から下車して、カバンを
肩に回そうとして、ある女優Hにぶつかるシーンだった。
その女優は、今でも活躍されている妖艶なムード漂う大女優だ。
ホームには大型クレーンが設置され、僕らは遥か遠くから人止めをする。
トランシーバから、「次本番行くから、人止めろ」と連絡が入り、
すぐさま人を止める。
緊張の瞬間、早く本番終わってくれと心の中で叫ぶ。
「はいOK,人通して」とトランシーバーから声が聞こえる。
「ご協力ありがとうございます」と言いながら人を通す。
しかし、トランシーバーから、「もう一回行くぞ」と連絡が入る。
内心、「またか」と思うが仕方なく人止めする。
それから何回やってもOKが出ない。
「もういい加減にしてくれと」心で叫びたくなる。
気付けば、テイク30くらいまでやっていた。
ファーストシーンのファーストカットのOKが出ない。
4、5時間は経過していた。段々イライラが頂点に達してきた。
いくらなり物入りの現場だといえ、これはやり過ぎだろと思った。
役者たちも疲労困憊の表情を見せ始め、その日は撮影中止となった。
仕方なく撤収を始めた。
エイジを捕まえ、脚本をくれと言ったら差し出された表紙には、「死んでもいい」と
書かれていた。これが映画のタイトルだった。
ローレンス・カスダンの映画「白いドレスの女」の日本版みたいな内容だった。
エイジたちは、1ヶ月前から大月入りをして映画の準備をしてきていた。
ホテルに案内され、エイジと雑談していたら、何やら騒がしくなってきた。
制作主任が入ってきて、エイジに、「ちょっとヤバいことになってきた」と言った。
「どうしたんですか?」とエイジが聞くと、「女優のHがゴネ始めた」
僕らは、女優Hとプロデューサーが話し込んでいる部屋を見にいった。
ドアが少しだけ開いていて、中の様子が見える。
とてつもなく深刻な話をしている雰囲気だった。
噂はすぐに全スタッフの元に漏れてしまい、その動向に釘付けとなり、夜は更けていった。
翌日、全スタッフがホテルの大広間に集められた。
そこに、あの相米慎二が現れた。
すると、誰も耳を疑うようなことを言い始めた。
「この映画の制作を中止します。理由は女優Hさんが降板を言い出したからです」
女優Hは、ファーストシーンを何度もやらされ、怒りが頂点に達したようだった。
我慢できず突如降板を言い出した。相米さん、監督をはじめ説得にあたったが、
彼女の決心は変わらなかった。
と言うことで、クランクイン1日目にして制作中止となった。
エイジたちスタッフは、この映画のために3ヶ月前からロケハンや撮影交渉など
準備を進めてきており、それが1日して無駄になるとは残念だっただろう。
全てを撤収して東京に引き上げることが決定した。
不眠不休で、僕は夜の中央線に乗り込み新宿に向かった。
電車の中で睡魔に襲われ、うとうとしてまどろんでいると、
誰かが、「あの役者が死んだらしい」と聞こえた気がしたが、
睡魔に勝てずそのまま眠ってしまった。
シモキタのアパートに着いたのは、夜中近くだった。
僕はそのまま泥のように眠った。
どれくらい時間が経っただろうか?遠くで電話が鳴っていた。
しばらく放っておいても鳴り止まない。
仕方なく出ると、高校の同級生からだった。
すると彼はこう言った。「優作が死んだよ」
思わず聞き返した。「優作って、あの優作か?」「うん」
電車の中で誰かが口にしていたのは、このことだったのか!?
1989年11月6日 俳優、松田優作死去
ニュースはこの悲報を大きく取り上げた。
数日前、遺作となった「ブラックレイン」を観たばかりだった。
業界人として一度は仕事はしてみたいと思う憧れの俳優だった。
思えば、昭和から平成になった1989年は、多くの昭和を代表するスターが
亡くなっていった。美空ひばり、手塚治虫、そして、松田優作。
何か吹っ切れた気持ちになり、僕は例のスタイリストに電話を入れ、
デートに誘った。それから僕の人生は大きく変化していくことになる。
そして、様々なことがあった80年代も終わろうとしていた。
その後、制作中止となった「死んでもいい」は、役者陣を総入れ替えして、
石井監督で再び撮影を行い、1992年に公開している。
石井監督には一度しかお会いしていないが、このエピソードは生涯忘れることはないだろう。
あの時は大変だったけど、今となればいい思い出である。
バブル、映画、優作、僕らの青春だった。
石井監督の心よりのご冥福をお祈りします。





