1992年4月25日、横浜の友人の家に居た時、テレビから速報が流れた。
「ロックシンガー尾崎豊さんが本日死亡しました」
友人は狂乱し、なんだかとてもつないことが起こった気がした!
その時僕は最悪のどん底人生を歩んでいた。
福岡市にて、尾崎豊展が開催されていた。
『OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展』
2022年4月29日〜5月15日開催
尾崎豊死去から30年を記念して、直筆のライナーノーツやギターなど尾崎が
愛用した品々が展示されていた。
特段ファンでもないけど、ちょっと気になったので行ってみることにした。
■ 尾崎愛用のギター オベーションアダマス
■ 愛用のピアノ
思い出の品々を目にするたび、当時のことが鮮明に蘇ってきた。
とりわけ、尾崎の年表を見ていると、自分の半生とオーバーラップしてきた。
尾崎と僕は同い年である。
尾崎は、1983年12月1日にメジャーデビューした。
その頃僕は、九州の片田舎で夢も希望もない高校生活を送っていた。
1985年、二十歳になった僕はただひたすら東京生活を夢見て上京した。
新たな友人たちとの出会い、田舎では考えられないような体験の毎日だった。
そんなある日、友人から「お前、尾崎のファン?」と聞かれた。
僕は一瞬言葉に詰まり、「尾崎って誰?」と答えた。
「えっ!尾崎を知らないってマジかよ」と思いっきり馬鹿にされた。
僕の田舎では、尾崎のオの字もなかった。
気がつけば周りは全員尾崎ファンだった。
それが初めて尾崎豊という存在を知った瞬間だった。
既に東京では若者を中心に「10代の教祖」なんて呼ばれ方をしていて、
人気の頂点に達しようとしていた。
尾崎を知らないことが超絶恥ずかしかった・・・
彼の歌には、校内暴力や10代の大人への反抗など、自分自身経験してきた
様々な事柄が歌詞に散りばめられていた。
「十五の夜」「17歳の地図」など
でもどこか彼の熱っぽい感じにあまりついていけなかった。
その後尾崎は覚醒剤所持法で逮捕される。
釈放され、夜のヒットスタジオで「太陽の破片」を熱唱する。
そして1988年、復活をかけできたばかりの東京ドームでライブを開催する。
1989年、昭和から平成となり時代は大きく動き始める。
この年はバブル絶頂期で、都会では大金が宙を舞っていた。
いつまでもこの好景気は続くと誰も信じていた。
その頃僕の人生も大きく変化しようとしていた。
運命の女性と出会い、1990年に結婚した。
それから数年、尾崎の歌に触れることはなかった。
結婚からわずか2年、不幸は突如現れる。
確か1992年の3月頃だったと思うが、妻から突然別れ話が持ち上がる。
理由は好きな男性ができたことだった。
言葉では言い表せない脱力感と戸惑いを初めて経験した。
それから仕事も辞め、友人たちの家を転々としていた。
横浜の映画学校時代の同級生の家に転がり込んでいた時、尾崎豊死去の速報が流れた。
尾崎のファンだった友人は悲壮な顔を浮かべていた。
1992年4月25日 尾崎豊死去 26歳没
連日、テレビや新聞は、尾崎の死去報道一色に染まった。
雨が降る中4月30日、護国寺で葬儀・追悼式が執り行われた。
美空ひばりや吉田茂の葬儀に匹敵する4万人もの参列者が弔問に訪れた。
当時僕が住んでいたマンションは、護国寺から割と近くだったので、
行こうかなと思ったが結局行かなかった。
テレビで葬儀の様子を見ながら、同じ26歳の青年が死んだことに
得体の知れない虚しさを覚えた。
そして僕はこの頃から初めての離婚に向け、人生最悪のどん底を味わうことになる。
何もかもが色褪せ、憂鬱な日々を過ごした。
それから約1年後の1993年3月、僕らは正式に離婚届を出した。
足掛け4年の結婚生活だった。
離婚のことは忘れようとしたが、それを乗り越えるには約5年近く時間を要した。
人生生きていればなんとかなる。どんな困難でもいつかは乗り越える時がくる。
尾崎の死を皮切りに彼の生き様に少し興味を覚え、曲も聴くようになった。
どこまでもストレートな歌詞であり、最近の抽象的な歌詞を並べた歌とは
違う。それが聴衆を引き込んでいく魅力だろうか。
僕は今年57歳になり、尾崎も生きていれば同じ年齢になる。
「10代の教祖」だった時代は良かったのかも知れないけど、
尾崎自身が大人になった時葛藤を生み深い闇に沈んでいったのかも知れない。
でもこれだけは言える。「57歳も悪くないよ。まだやれる」
尾崎の死から30年、思えばいろんなことがあった。









