「平成は波乱のはじまり!」エピソード11 | コーキのテキトーク

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1997年(平成9年)8月、僕はひょんなことから中央アジアに行くことになった。

中央アジアと言われてもピンとくる人は少ないだろう。

中国の西の新疆ウイグル自治区のさらに西、ウズベキスタン、カザフスタン、

トルクメニスタンなどが代表的な国だ。

当時まだ認知されていないCSの旅チャンネルの仕事で、カメラマン兼プロデューサーの

岡村氏と二人だけのロケだった。

直行便のチケットが取れず、旅行会社に相談したらこんなルートを提案された。

東京駅から仙台まで東北新幹線で行き、仙台空港からアシアナ航空でウズベキスタンに行くという

最悪のルートだった。

しかしこのロケが生涯忘れることのない劇的な出会いを迎えることになるなんてこの時の僕には、

知る由もなかった。

 

<ウズベキスタン共和国>

人口約3200万人 旧ソ連の共和国 首都タシケント

 

首都タシケントには、様々な人種がいた。

ウズベク人はもとより、イスラエル人、ウクライナ、ルーマニア、ロシア。

シルクロードの中継地点として栄え,旧ソ連の名残が色濃く残っていた。

言葉ができない僕らの元にガイド兼通訳のマルカさんが合流してくれた。

かくして三人による珍道中は始まった。

まず訪れたのは、ヒヴァという街だった。

旧市街にあるイチャン・カラはウズベキスタン国内で初めて世界遺産登録された。

10世紀に建てられた煉瓦の城壁に守られている街並。

ヒヴァからサマルカンドへ。

サマルカンドは、青を基調としたモスクが印象的で、「青の都」と呼ばれていた。

人々の暮らし、食事、風景、空気感、そのひとつひとつを収録していった。

ある村に着くと、凄い歓迎で迎えられた。ちょうどその日は、あるカップルの結婚式が、

村総出で行われていた。

すると村長のような人が、僕らへスピーチを求めてきた。

度胸の据わった岡村氏は、日本語でスピーチを始め、言い終わると大拍手が巻き起こった。

みな純粋で優しく、日本人にはない感性がここにはあった。

そんなこんなで、約1ヵ月かけ再びタシケントに戻ってきた。

ホテルのバーで岡村氏とお酒を飲んでいたら、60代くらいの二人の日本人男性と出会った。

挨拶を終え、何気なくウズベキスタンにやってきた目的を聞いた。

すると男性は、想像を絶することを言い始めた。

「実は僕らは、戦後ここに強制連行され、収容所に入れられていました。

今回はその時死んでいった仲間を弔いに来たんです」と淡々と答えてくれた。

僕は唖然とした。強制労働の話は知ってはいるが、戦後生まれの僕にとって、

にわかに信じられない話だった。

終戦間際、ソ連軍により不当に日本人は捕虜にされ、シベリアなどに送られ、

強制労働を強いられた。

恐らく、シベリアに行く途中で、この地に向かわされ、二人は強制労働をさせられた。

実はタシケントには、ナヴォイ劇場という有名な劇場がある。

バレエやオペラを行うナヴォイ劇場は、実は日本人捕虜によって建設が行われた。

明日をも知れぬ劣悪な環境にありながら、日本人捕虜は、災害にもびくともしない立派な劇場を

完成させたのである。

完成から70年以上経った今でも、立派にその役目を果たしている。

建設時、懸命に作業する日本人に対して地元の子どもから食べ物の差し入れが行われたが、

彼らに対して木のおもちゃをお返しするなど劣悪な環境でも礼儀を忘れなかった。

この劇場の近くには、日本人墓地もある。

日本から来た男性二人は、タシケントから車で1時間ほど行ったところで強制労働を

させられていて、明日、その場所へ行くと言った。

僕と岡村氏はしばらく沈黙した。

悩んだ挙句、「僕らも同行させてください」と言うと、

二人は、「どうぞ」と言ってくれた。

翌日早朝から、タクシーに乗り込み、4人で現場へ向かった。

1時間ほど走ると、突然男性の一人が、止めてくれと言った。

そこには、水力発電所があった。

僕は、カメラを回しながら二人のあとを追った。

「ああここだ」「うんここだ」と二人は言った。

何があったのか聞くと、「このダムの建設を僕らは行っていました」と男性は答えた。

「来る日も来る日も、土を運ばされたり、穴を掘らされたり、そのうち仲間は腸チフスにかかり、

死んでいきました」

男性たちは、ここでの体験を淡々と語ってくれた。

「この近くに仲間を埋めた墓地があります」と二人はそこへ向かい始めた。

僕らは追いかけた。

ダムから少し離れたところに、土がいびつに盛り上がっている空き地があった。

「ここです。ここに仲間たちを埋めました」と言いながら男性は、日本から持ってきた酒を、

その土にまき始めた。

「帰ってきたぞ、ほら日本の酒だ、飲んでくれ」二人は、盛り土の上を歩きながら、

ひとつひとつに話しかけた。

ファインダー越しに見てる僕の目からとめどなく涙がこぼれ落ちた。

「僕らが平和に暮らせるのは、この人たちのおかげだ・・・この人たちが犠牲になってくれたから、

今の平和がある」と心の中で思った。

すると岡村氏は、お経を唱えると言い出した。

実は岡村氏は、名古屋の寺の跡取り息子だったが寺を継ぐのが嫌で、学生運動へと傾倒していった異色の経歴の

持ち主だった。

子どもの頃からお経の勉強をしていたため、少々難しいお経も読むことができる。

岡村氏は、盛り土の上に跪き、お経を唱え始めた。

炎天下の中、虫の鳴き声と風の音しか聞こえない。

僕はその様にレンズを向け、ひたすら回した。

どれだけ時間が経っただろう、お経が終わり、あたりに静寂が訪れた。

男性は駆け寄り、涙を流しながら岡村氏に「ありがとうございました。みんな喜んでくれていると思います」と言った。

僕らは待たせていたタクシーに乗り込み、ホテルへ向かった。

その夜、岡村氏とロケの終了を祝い乾杯した。

それにしても濃いロケだった。

翌日僕らは日本への帰路に就いた。

帰国後、猛烈な勢いで編集をはじめた。

その直後、ダイアナ妃が不慮の事故により死亡というニュースが飛び込んできた。

1997年8月31日享年36

でも僕は、ウズベキスタンで体験したことが強烈過ぎて、どこか心にポカンと穴が開いていた。

そんな時、ちょっとした飲み会である女性と出会う。

それは、「真面目に人を愛せない症候群」という病に侵された僕を回復させてくれる大きな出会いだった。

 

to be continue episode12.