「平成は波乱のはじまり!」エピソード7-② | コーキのテキトーク

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1990年(平成2年)、’80年代が終わり、時代は’90年代へと突入した。

相変わらずのバブル好景気に浮かれ、不景気がやってくるなんてことを

考えてる人は皆無だった。

勢いが衰えることを知らないジャパンマネーはついに、

アメリカのロックフェラービルを買収した。

買いあさりを象徴するような出来事であり、多くのニューヨーク市民から反感を買った。

そんな中僕は、住み慣れた下北沢を離れようとしていた。

業界人になったらこの街に住みたいと切望し移り住み、この街は様々な刺激を与えてくれた。もっとも多感な時期に、この街にいれたのはとてもラッキーなことである。

石を投げれば業界人にあたるというくらいこの街には、演劇・テレビ・映画関係者が多く住んでいた。

そんな人間たちがごった煮の様に入り乱れ、夜の居酒屋では怒号が飛び交い喧嘩になるのは

日常だった。

そんな下北沢が大好きだった!

友人たちが集まり引越しの手伝いをしてくれた。4畳半風呂なし、あるのはベッドとステレオとテレビのみ、

それでも最高に楽しかった。

同棲を始めるとみんなに言うと一同唖然としていた。

いろんな思い出が詰まった下北沢に別れを告げた。

そして僕は、前年から付き合うことになった女性と新居を構え新たな生活をスタートさせた。

お互いなんとなく結婚を意識し始めていた。

どうも僕はプロポーズの言葉っていうのが苦手で、3度結婚しているが、

一度もちゃんとプロポーズの言葉を言ったことがない。

「僕と結婚してください。幸せにします」なんて口が裂けても言えない。

5月のGW、僕らは結納を行うため帰省した。

お互いの実家に行き正式な挨拶を交わし、親睦を深めた。

ひと段落ついたけど僕にはやらなきゃいけない大仕事があった。

実は高校生の時、親父が倒れ、意識がはっきりとしない状態で7年間入院していた。

その親父に、許嫁となる彼女を連れて行かねばならなかった。

少し重い気分で病院に行った。

病室に入り、ベッドに横になった親父に彼女を紹介した。

親父は言葉を発する事もできず、ただ天井を見ていた。

何かを言うとするがはっきりと聞き取れない。

彼女も親父に話しかけてくれた。

しばらく親父の元にいて、僕らは病院を出た。

その瞬間、ホッとした気持ちになった。何はともあれ大仕事は終わった。

そのまま飛行機で東京へ戻り日常の生活に戻った。

しかし事態は大きく急変する!

それから一週間後、「明日誕生日だよね。食事でもしようか?」と彼女が

言ってきた。彼女が僕の誕生日を覚えてくれてたことが嬉しかった。

初めて迎える誕生日は、赤プリあたりでフレンチなんていうのもありかなと

思っていた。

その矢先、電話が鳴った。

出ると兄からだった。

するといきなり、「親父が死んだ」と言った。

容易に理解できない言葉に絶句した。

彼女にそのことを告げ、すぐさまタクシーを拾い羽田に向かった。

実家に戻ると近所の人が集まり通夜の準備が進められていた。

祭壇には棺に横たわる親父の姿があった。

一週間前は、確かに生きてた親父が冷たくなっていたことに不思議な気分になった。

夜、彼女も遅れてやってきた。

通夜が行われ、翌日は本葬だった。

奇しくもその日は僕の誕生日、本来なら彼女と初めて迎える記念日でもあった。

葬儀を終え火葬場に向かった。

そして火葬炉に入れる時が来た。

思えば、公務員の安月給で三人の子供を育て上げ、必死に頑張ってきた。

これから楽になるというタイミングで病魔に冒され寝たきりの状態になった。

7年間も患っていたのに、僕が許嫁を紹介した矢先に死んだ。

親父はよほど末っ子で甘えん坊の僕のことを心配していたんだろう。

どうしようもなく感情が溢れ、涙がポロポロこぼれてきた。

親父に一度しか会ったことがない彼女も泣き始めた。

全てが終わり、火葬場の中庭のベンチに彼女と座った。

何か言おうとするが言葉が出ない。

長い間沈黙が続いた。

しばらくしてその場を去った。

9月には結婚式を挙げることは決まっていた。

親戚からは延期した方がいいという意見も出ていた。

内心それも仕方がないかなとも思い始めたいた。

1990年5月半ばの出来事だった・・・

 

to be continue.