1993年(平成5年)春、まもなく28歳になろうとしていたと同時に、
かつてない崖っぷちに立たされていた。
足掛け4年に及んだ結婚に終止符を打つため、
離婚届にハンコを押すかどうするかいう究極の選択を迫られていた。
25歳で結婚し仕合せの日々の中にいた僕はある日突然、奈落の底へと
突き落とされた。
遡ること1年前の2月ごろ、妻の異変に気付いた僕は、問いただすと、
好きな男性ができたことをあっさり認めた。
妻は僕との結婚を解消したいと言った。
それは、とんでもない暗闇に落ちていく言葉だった。
恐らくそれまでの人生で、様々な別れや女性にフラれたことなんて沢山あっただろう。
そのすべてを足しても、この一度の裏切りに比べれば取るに足りないものだった。
それから憂鬱で暗澹たる思いの中、日々を過ごすことになる。
「死の棘」という松坂慶子が主役を演じた映画あるが、夫の浮気を知った彼女は、
その日から化粧をすることもなくスッピンで生活するようになる。
それほどショックだったということを端的に表現した名演出だ。
仕事も手につかなくなり何もかも嫌になった僕は、結局3年勤めた制作会社を辞めた。
でも何かしらやって食っていかないといけない。
だから江東区で宅配便のバイトを始めた。
ディレクターというクリエイティブな仕事から肉体労働へ。
これは結構こたえる。
1日働いて1万円、取っ払いでもらう自分が惨めだった。
真夏の猛暑の中、配達をしながら出口の見えない迷路の中を彷徨い続けた。
山手線に乗り込み座席に座理、ぼんやりと窓外の景色を眺める。
そのまま時間が経つのも忘れ、降車駅を素通りしてしまった。
面倒臭くなりそのまま山手線を何周もした。
3ヶ月間ほどバイトを続け、嫌になった僕はバイトも辞め、友人の家を泊まり歩いた。
横浜に住んでる同級生・Tの家に行くと、彼も奥さんが子供を連れて出て行ったらしい。
同じような境遇に、傷を舐め合うように酒を飲んだ。
そんな時、同級生が今度は横浜のクルーズ船で豪華な結婚式を挙げるということで
招待状が届いた。
こんな気分で、行けるわけがないと断ったが是非来てくれというので、
行くことにした。
関内駅まで行き、いざ行こうとするが全然気が進まない。
マリンタワーや山下公園あたりをウロウロしてると、奥さんと来たことを
思い出した。
ベンチに座り、回想しているとなんだか泣けてきた。
男ほど女々しい生き物はいない・・・バカだとわかっているが・・・
このまま彼女の前に、土下座でもしたら戻ってくれるんだろうか?なんてバカなことを
思ったりした。
無駄な時間は過ぎ、結局、友人の結婚式はすっぽかしてしまった。
帰りに友人Tの家に行った。
すると彼は、真顔でこんなことを言い出した。
「俺、カミさんの実家の広島に行こうと思う」
友人Tは、映画やドラマの録音助手の仕事をしていた。
「そんな仕事、広島にはねぇだろ」と僕がいうと、
「カミさんは実家に帰りたがってるんだよ。一緒に帰ってくれないんだったら
離婚したいって」
「マジか?」と言うと、彼は達観した感じでこんなことを言った。
「このままここにいても、広島に行っても、どっちにしても後悔すると思う。
同じ後悔するなら、広島に行くよ」と。
僕は彼の潔さにうたれ、「頑張れよ」と言った。
それから数日後、彼は奥さんと子供を車に乗せ広島へ旅立った。
風の噂ではトラックの運転手をしているらしい。
「今度は俺の番だ!」
書棚の奥の方に投げていた奥さんから届いた離婚届に、僕はハンコを押した。
友人Tが言っていた「どっちにしても後悔する」と言う言葉。
僕もどっちにしても後悔するだろう・・・
でも仕方ない。僕はそのままポストまで走り彼女に送った。
これで全てが終わった・・・
それでも生きていかなきゃならない、くよくよしたって始まらない。
1993年春。
僕は映画やドラマの世界に見切りをつけ、情報番組の世界へと踏み込むことになる。
しかし、本当の苦しみはここからが本番だった。
その後僕は、「真面目に人を愛せない症候群」という不治の病に侵されることになる。
to be continue.
「キミはどうやって離婚のショックから立ち直ったんだい?」