昭和天皇崩御から始まった平成元年(1989年)。
この年は、多くの有名人がこの世を去っていった。
2月には、僕が最も尊敬する漫画家の手塚治虫氏の死。
6月には、激動の時代・昭和の戦後復興時、国民に勇気や希望を
与えてくれた昭和の歌姫・美空ひばりが52歳という若さで
亡くなった。
そして、僕がもっとも影響を受けた役者の死も刻一刻と
迫りつつあった。
11月のはじめ、友人から電話があった。
滅茶苦茶切羽詰まった様子で、「明日、大月まで来れない?」と言った。
「えっ!大月ってどこ?」と聞き直した。
「山梨の大月だよ。制作進行が苛酷に耐えかねて突如逃亡した。
お前代わりに来てくれ」というとてつもなく勝手な電話だった。
しかし仕事の内容を聞いて、気持ちが揺らいだ。
プロデューサーは、相米慎二で、主役は当時売り出し中の女優Hだった。
監督やカメラマンは、当時の日本映画をけん引している実力者たちばかり。
「こりゃやるしかないだろ」と思った。
社員だった僕は、社長に無理を言って、2週間ほど休みをもらうことにした。
いま思えば、こんな無茶なことよく許してくれたと思う。
翌日、中央線に乗って、山梨の大月駅へ向かった。
駅に着くと、そこで撮影が行われていた。
友人を見つけ駆け寄ると、いきなり「人止めしてくれ」と言った。
朝の通勤時間と野次馬が入り乱れ、黒山の人だかりができていた。
ファーストカットは、女優Hが電車から降りてきて、俳優のMとぶつかり
二人は出会うシーンだった。
しかし、何度も何度もテイクを重ねるが監督のOKが出ない。
恐らくテイク20くらいまでいったと思うが、監督は納得しなかった。
「どこまでこだわればいいんか?」と思った。
結局その日は撮影中止。
一旦ホテルに戻り、夕食をとった。するとその夜事件は勃発した!
女優Hがマジ切れして、降板すると言い出した。
プロデューサーや制作主任が説得にあたったが頑として縦に顔をふらない。
その様子を人ごとのように僕は見ていた。
そのことは一瞬にして全スタッフに伝わり、かたずをのんでその動向をうかがった。
翌日、全スタッフが宴会場に呼ばれ、プロデューサーの相米さんが現れた。
初めて相米慎二という憧れの映画監督を見た瞬間だった。
「セーラー服と機関銃」「台風クラブ」「魚影の群れ」など10代の終わりから
20代にかけ、その実力に圧倒されていた。
その相米が、みんなの前で、制作中止を発表した。
大月に来てわずか1日で東京へ帰ることになった。
徹夜に近い状態で撤収作業を終え、中央線の最終電車に飛び乗った。
夜半の自宅、部屋を開けると同時に泥のように眠りについた。
何時間経過しただろう。遠くで電話が鳴っているのが聞こえた。
思わず飛び起き電話に出た。
電話の相手は、高校時代の同級生からだった。
開口一番彼は、「優作が死んだよ」と言った。
「えっ!優作ってあの優作?」と僕。
僕は慌ててテレビを点けた。
テレビから松田優作の訃報が流れていた。
忘れもしない11月6日。
数日前に、「ブラックレイン」を劇場で観たばかりだった。
強き男の象徴のような存在の俳優。
高校生の頃から憧れ、業界人としては一度仕事をしてみたい憧れの人だった。
なんだか全く眠気が吹っ飛んだ!
誰かに電話したくなって、この間知り合ったスタイリストにかけようとした。
まだ携帯電話もメールもない時代、連絡するには固定電話しかなかった。
プッシュホンを押してはやめる。何度も何度も繰り返しやっと勇気をふりしぼって
電話をかけた。
それはこれからの人生に大きく影響を及ぼすことになる運命の電話だった・・・
to be continue episode4.