先日、仕事で名古屋を訪れた。
駅に到着後、車で移動。街中を走りながら思った。
「名古屋は何年ぶりだろう・・・」しばらく記憶をたぐった。
「そうだ、10年ぶりだ」
10年前、僕はある仕事の打ち合わせで、名古屋を訪れた。
何気なく始まった打ち合わせだったが、それは生涯忘れることのない感動と出会うことになる
はじまりだった!
10年前、フリーのディレクターをやっていたとき、TBSのドキュメンタリー番組の仕事が舞い込んだ。
確か「ON TV」とかいう番組だったと思う。
いまは放送しているのかわからない。
取材の内容をプロデューサーから聞いて、驚愕した!
内容は、全身大やけどに見舞われた女性の取材だった。
僕はどちらかと言えば、情報番組に携わってきたので、あまりドが付くほどのドキュメンタリー番組の
経験値は浅かった。しかし折角いただいた仕事なので、やるしかない。
ただ人の不幸にカメラを向け、番組にしていいものなのか、少し浮かない気持ちだった。
その女性との初顔合わせが、名古屋だった。
■ 名古屋駅
その時、名古屋のどこかの会場で、あるシンポジウムが開かれていた。
「熱傷フェニックスの会」という団体で、火傷で怪我をされた方々が集まり、自分たちの体験談を
みんなの前で語る。
それは、涙なしでは語れない悲惨な体験談ばかりだった。
ある方は、船長をやっていて、船が火事に遭い、部下全員は亡くなったが、
船長である本人は、全身火傷を負いながらも生きながらえることができた。
「いまでも、部下を死なせたことを悔いている、自分が死ねばよかった」と男性は言っていた。
その言葉が出た瞬間、会場から嗚咽とも思えるすすり泣きが聞こえた。
とにかく悲惨な身の上話が、次から次へと語られていく。
これは現実の話なのか?と思えるほどの内容だった。
シンポジウムが終了して、ある女性を紹介された。
まだ35歳くらいの方で、顔を見ると火傷のあとがあった。
火傷は顔の一部ではなく、顔全体がただれていた。
僕は一瞬、ハッとなったが、何事もないように振る舞わった。
この出会いが、のちに感動の瞬間と遭遇する始まりだったが、その時の自分は知る由もなかった。
彼女の体験談をじっくり聞いた。
結婚して間もない頃、妊娠中に貧血で倒れた。運悪くストーブの上に倒れこみ、
全身大火傷を負った。肌を露出している部分すべてに、火傷の跡があった。
高温の煙を吸い込んだ影響で、喉をやられ、声がかすれていて、少し聞き取りにくい。
白い手袋を外すと、両手すべてが火傷に覆われていた。
事故後、流産し夫とは別れたらしい。事故からすでに、4,5年の歳月が流れていた。
聞き終わった瞬間、恐ろしいほどの脱力感に襲われた。
何事もなく平凡な毎日を送っている僕らの生活からすると、こんな不幸なことがあること自体、
信じられなかった。
しかしこれは、まぎれもない現実だった。
恐らく事故さえなければ、幸せな結婚生活を続け、やがて出産して、温かい家庭を
築いたことだろう。
しかし彼女には、過酷な運命が待ち構えていた。
正式に取材の申し込みをし、彼女も快諾してくれた。
引きこもりの毎日を送る自分に、少しでも前向きに生きていくために、人前に出るのも
リハビリと言っていた。
彼女の住まいは九州だった。
僕は数日後、撮影クルーとともに、彼女の実家へ行った。
最初は、彼女との距離感を縮めていく作業だった。
いざカメラを向けると、しきりに気にしていた。
それは当然のことだろう。街に出歩くこともない生活を送っている彼女に、いきなりカメラを向けること
自体、彼女にとって非日常のことだった。
ただ長回しで撮影していると、段々カメラに慣れてきて、素の彼女の言葉や表情が撮れた。
彼女の日常や両親のインタビューなどを中心に撮影した。
彼女が目的に掲げていたのが、カバー化粧品を使った化粧のやり方を覚えたい。
それには、東京の化粧品会社へ行って、習得しなければならない。
彼女は母親とともに、東京へ行くことになった。
カバー化粧品は、水に濡れても落ちにくい化粧品で、顔に傷がある人のために開発された。
彼女は、化粧品会社で手ほどきを受け、みるみる顔の表情が明るくなった。
そして、母親と銀座の街を歩きながら、ウインドウショッピングを楽しんだ。
事故以降、人目の多い通りを歩くのは初めてのことだった。
カバー化粧品の施術方法を習得した彼女は、九州へ帰り日常の生活に戻った。
僕は再び九州まで追いかけた。
正直言うと、まだ番組として成立させるには、物足りない何かを感じていた。
最後に、ドラマチックなシーンが撮れないだろうかと、密かに思っていた。
「いま一番やりたいことって、ありますか?」と何気なく言った。
彼女は、じっと考え、重い口を開いた。
「実は、事故以来会っていない親友がいます」と彼女は言った。
中学高校と無二の親友だった女性は、九州のある村にいるという。
事故以前は、頻繁に会い、お互いの悩みや、なんでも相談していた仲だった。
しかし、事故以来、自ら次第に遠ざかり、連絡も一切受け付けなくなった。
申し訳ない気持ちはあったが、変わってしまった自分の姿を見せたくなかった。
彼女は、友人との思い出話を語ってくれた。
「いま一番やりたいことは、友人に会うことです」と彼女は言った。
僕はまったく何も考えずに、
「行こう!行きましょう!すぐにでも行きましょう」と言った。
翌日、ロケスタッフとともに現地へ行った。
2時間ほど車を走らせ、山々に囲まれたある村にたどり着いた。
友人は結婚して、この村にやってきたらしい。
家々を回り、友人の家を探した。
何軒か聞き込みを続けると、やっと彼女の住む家がわかった。
僕らは、カメラを回しながら、彼女のあとを追った。
そこは、シイタケ栽培を行っている農家だった。
彼女は、恐る恐る近づいていくとビニールハウスがあった。
中を覗くと、一人の女性が作業を行っていた。
彼女は、ビニールハウスの中へ入って行った。
物音に気付いた作業中の女性が、彼女の方に振り返った。
その女性こそ友人だった。
お互い近づき、しばらく見詰め合い、言葉も交わすことなく、抱き合った。
一言もかわすことなく、ただただ長い時間、抱擁が続いた。
それは、二人にとって空白の時間を、この瞬間に取り戻すように思われた。
彼女たちは、7年ぶりの再会だった。
「久しぶり」とか「元気だった?」なんて言葉がなくても、心の中で会話しているようだった。
どれだけ続いただろう。やがて、抱擁をやめ、彼女は、「ゴメンね」と一言言った。
友人は、その言葉をきっかけに、大粒の涙を流した。
彼女も泣き始めた。
カメラの後ろ側にいるわれわれスタッフも、その光景に泣き始めた。
恐らく、こんな瞬間をリアルに撮影できるなんてことは、滅多にありえない。
僕もまだディレクターとして浅い経験値だったが、こんな場面に巡り合えたのは、後にも先にも
初めてのことだった。
それから東京に戻り、凄まじい勢いで編集した。
とにかく核となる映像は撮れている。あとはそれをどう見せるかだ!
編集を終え、いよいよ局で行われるプレビューの日がやってきた。
プロデューサーをはじめ、数十人の局員に囲まれてのプレビューだった。
映像が流れ始め、彼女の境遇や思いなどが語られていく。
そして、いよいよクライマックスの友人との再会のシーンがやってきた。
一同固唾を飲んだ雰囲気で沈黙が続いた。
僕は、そのシーンに、鋏を入れることなく、丸々つないでいた。
見終わって、多くの人たちが、ハンカチで涙を拭っていた。
すべての場面に立ち会っていた僕でも、改めて見て泣けてきた。
これだけ多くの人を、泣かせる番組を演出したのは、初めての経験だった。
その後、無事放送を終え、珍しく友人や知人から電話あり、反響を呼んだ。
視聴率もすこぶる良い結果を得た。
思えば、感動の始まりは名古屋からだった。
何も考えず、少し尻込みしている彼女の背中を後押ししたことは、よかったと思う。
またこんな場面に、出会えることがあるだろうか?
このことを書くにあたり、ミッキー・ロークが主役を演じた映画「レスラー」を思い出した。
映画のキャッチコピーは、「人生は過酷だ。でも美しい」
そんな言葉がぴったりの瞬間だった。

