思うに、絶望を過大評価してはならない。なぜなら所詮それは、希望の対義語に過ぎないからである。
希望が未実現の幸福を指すならば、絶望は未実現の不幸を指す。そして希望が幸福を保証するものではないように、絶望もまた不幸を約束するものではない。しかし人は絶望を口にする時、それが不幸の同義語であるかのように思い誤り、不確定な未来に心を投じてしまう。少なくとも希望を悲観するのと同様に、私たちは絶望を楽観すべきではないだろうか。
思うに、絶望を過大評価してはならない。なぜなら所詮それは、希望の対義語に過ぎないからである。
希望が未実現の幸福を指すならば、絶望は未実現の不幸を指す。そして希望が幸福を保証するものではないように、絶望もまた不幸を約束するものではない。しかし人は絶望を口にする時、それが不幸の同義語であるかのように思い誤り、不確定な未来に心を投じてしまう。少なくとも希望を悲観するのと同様に、私たちは絶望を楽観すべきではないだろうか。
意外と知られていないのが、握力や垂直跳びの世界記録である。以前に調べたところによると、確か握力が190kgほど、垂直跳びが120cmほどだったと思うが、正直信憑性は定かではない。
走力や跳躍力、投擲力や泳力など、超人の肉体能力に対する人々の興味は尽きることがない。ならば握力や垂直跳びの国内大会や国際大会があっても良いと俺は思うのだが、やはり絵面を考えるとあまりに地味で、競技としては成り立ちにくいのだろうか。
宇宙は無限にループしている、宇宙論にはそんな仮説がある。宇宙はビッグバンによって1点から膨張しビッグクランチによって1点に収縮する、また1点から膨張し1点に収縮する、それが悠久の時の中で延々と繰り返されていると言うのだ。
では宇宙が無限にループしているのなら、今の宇宙、次の宇宙はそれぞれ何回目になるのだろうか。今が無限回目で次が無限+1回目になるのか。あるいは次が無限回目で今が無限-1回目になるのか。いずれにしても無限大±有限値、そのような奇妙な値が数学的に許容されるのか、何とも気になるのである。
これも一種の中二病だろうか。高校時代や大学時代、俺は格闘技に並々ならぬ憧れを抱いていた。それは例えばボクシングやキックボクシング、あるいは当時流行っていたK-1などについてだ。俺は無駄に筋トレをしては、ゲーセンのパンチングマシンで高スコアを出して友人に自慢していた。
しかし最近になって思うのだ、柔道こそが生涯スポーツに最適であると。ボクシングなどに比べて相手に怪我を負わせにくいという点を考えれば、護身術としても実用的だ。ちなみに俺は中学時代、柔道部の幽霊部員であった。今からでも趣味程度に、道着に袖を通す機会があれば願ってもない。
近年の中国の動向から目が離せない。もちろんそれは、台湾有事あるいは尖閣諸島における軍事衝突、その可能性と危険性についてだ。しかしそれらに関して確かな情報を欲しても、我々にはネットの不確かな発信源しか与えられていないのが現状である。
米中対立について、メディアは報道することを極端に避ける傾向がある。確かにありのままを報じてしまえば、国内に軍拡論や改憲論が起こりかねない。それは政情の不安定化に繋がるだろう。しかし現実にウクライナ戦争が起きてしまっている以上、政府はもはや国民を平和な箱庭に閉じ込めておくことは出来ない。我々一人ひとりに明日を覚悟する権利があると、俺は思うのである。