究極の知とは無知である。
一見逆説的に聞こえるこの命題、しかしそれこそが、
「知を求める」という行為の本質であるように思える。
飽くなき知の探究、その最果てにあるのは、
自らの無知の自覚である。
俺は文系学部卒ながら、
子供の頃より宇宙論の大ファンであった。
相対性理論、量子力学、特異点定理…
それこそ関連本を何十冊読み漁ったか分からない。
恐らく文系卒が理解し得るMAXを極めたと自負している。
しかし俺は、その"MAX”から先へは一歩も進めなかった。
それ以上に理解を進めるためには、
高度に専門的な数学的知識が必要だったからだ。
もちろん俺に理系学部の数学の心得などあろうはずもない。
そして俺は悟った。
数学が使えない俺が解し得る天体物理学の世界、
それはこの広大な宇宙の中で、ほんの一握りなのだと。
例えばテレビのクイズ番組。
一流大卒の芸能人たちが、
自らの知識をひけらかし、そこにあぐらをかいている。
人ぞれぞれ、理解のキャパシティは異なる。
確かに、彼らが収める知識量は俺より遥か上だろう。
しかし俺は思うのだ。
無知の自覚に至るまでの長き知の探究の道、
彼らはまだ、その扉さえ開いていない。