俺と中学以来の親友・某氏は、
今でもちょくちょく連絡を取り合う仲だ。
振り返れば俺と某氏は、まさに対極的な半生を歩んで来た。
中高時代、俺はベラボーに勉強が出来た。
一方某氏は、からっきし勉強がダメだった。
某氏は専門学校を卒業後、いち早く大手企業に就職。
その頃俺は大学受験、就職活動ともに失敗。
人生初にして最大の挫折を味わっていた。
そして現在、某氏は一店舗を任されるまでに出世。
結婚し家庭を築き、2児の父となった。
片や俺は職を転々、恥ずかしながら職業訓練の身に甘んじる。
「俺と某氏、果たしてどちらが優れているか?」
もし第三者に聞いたならば、そこに考量の余地はあるまい。
間違いなく某氏であろう。
しかし少なくとも俺らの間において、その問いはナンセンスだ。
互いに互いが秀でていて、尚且つそれは、
決して自分とは比べられない、別の土俵の素養である。
そのことを認め合っているからだ。
例えば今、俺の能力・魅力をx座標軸上の1点に取り、
某氏のそれをy座標軸上の1点に取る。
そしてx軸とy軸が直交してしまったら。
2次元座標面において、決してx座標をy軸を以ては測れない。
その逆もまた然りである。
言うまでもなく、我々は4次元以上の座標空間を、
物理的にイメージすることは出来ない。
しかし俺は思う。
「友の自分にはない要素を、
自分には測れないながらも、友の固有の美質として認める」
それは胸に、(n+1)次元座標空間を構築することではないか。
そして友が5人いたならば6次元座標空間。
10人いたならば11次元座標空間。
我々が常に寛容性と敬意を以て友と接するならば、
(n+1)→∞とすることだって可能であろう。