特技監督•高野宏一 | 八木毅のブログ/Takeshi Yagi's Blog/Electric Garden
あまりにも近すぎて、うまく言葉に出来ないのだけれど、高野宏一監督が亡くなられた。
高野さんのことを、しっかり評価出来る人が少ないようなので、はっきりと、ここに明言するけれど、高野宏一とは日本一の特技監督である。

私が新卒で、円谷プロダクションに入社した時(もう、15年以上も前のことだ)、砧にあった円谷プロ敷地内の狭い製作部の社屋には第一製作部と第二製作部、そして芸能部が席を並べていた。
私は満田監督率いる第二製作部に配属されたが、高野さんは隣の第一製作部長。
この偉大な二人(ウルトラセブンの最終回を撮ったコンビだ)の監督の下で働けると、当時の私が感動に打ち震えたことは言うまでもない。(マジ)
が、しかし、バリバリ仕事を覚えるぜ、と血気盛んに乗り込んで来た私の前にあったのは、新作の無い暇な状況だった。
再編集番組とか、CMみたいなものしか、その時の円谷プロは作っていなかった。
挙げ句の果てに、私は当時あった上海の円谷プロのアニメ子会社の担当にされてしまい、セル画を運んで東京•成田、東京•上海を往復する日々。
練馬辺りのアニメ制作会社はたくさん覚えたし、上海には半年で20回くらい行った。
今になって思うと、その時、編集技術も覚えられたし、アニメの仕事は後で「ガンダム」やった時などに、大いに役立ったのだが、それでも当時、私は、悩みまくった。
まったく方向が違う。
私は作品を作りたいのだ!
そして、そんなとき、不貞腐れていた私に、高野さんは優しく手を差し伸べてくれました。
と、いうようなことでも、決して無い。
そのような、甘い世界ではない。
高野さんも、そんなベタベタした方ではない。
現場は放任主義。
しかも、はっきり書くが、弱肉強食である。
出来ないやつは去れ、なのだ。
ちなみに、円谷プロにも、私の前後にも、たくさん演出部候補生がいたが、監督になれたのは私だけ。
皆、途中でリタイアしてしまった。
厳しい世界である。
ジャングルのルール。
なので、こんな私個人の突き当たった壁なんか、周囲の皆には全く関係ない。
自分の困難は、自分で切り開くしかないし、そうしないと結局、残る事が出来ない。
手を差し伸べないことによって、それを教えてくれていたように思うし、それは、当時、様々な形で私の前に現れた。

その一つは、例えば、こんなこと。
たまに時間があって、みんな砧にいるような時や、久しぶりの来客の時、ちょっと暑い夏の日とか、雪が降ったりして冷え込む冬の日など、高野さんが、お酒やら、つまみやらを買いにいかせる。
買いに行くのは、だいたい新入社員の私たち。
そう言えば、高野さんはワインとチーズとハムとフランスパンという洒落た組み合わせが好きだった。
美食家だったし、オシャレな人だったのである。
円谷の就業時間は6時までだが、だいたい4時くらいから、製作部室で、もう、宴会が始まる。
仕事を覚えたい私は、とんでもないなあと最初は思ったけれど、あの時に聞かされる話は、じつは、貴重なもの。
「ウルトラマン」の頃の現場の話、英二さんや一さんの話など、多岐にわたり、いろいろと聞かせてもらえたし、満田監督や鈴木Pや様々な関係者が集う歴史的な飲み会でもある。
高野さんは、さりげなく、いろんな話を聞かせてくれた。
新作の現場が無い分、こんなところで勉強させてもらっていたのである。

「ウルトラマンパワード」の撮影をハリウッドでやっていたころ、高野さん達が視察に行くことになった時のこと。
新入社員の私がハリウッドの視察に行けるはずもなく、でも、どうしても撮影が見てみたくて、高野さんに、休みとって現地に行ったら撮影を見せてもらえますかと頼んだことがある。
今になってみると、社員としては無謀な行動だが、高野さんは「いいよ」と言ってくれた。
撮影を見たいと焦っている私の気持ちを充分察してくれていたのだと思う。
私はエアチケット買って、夏休みの申請を会社に出して、高野さん達が滞在していたユニバーサルシティ•シェラトンに行った。
スーツケース片手に一人で現れた私を見て、ちょっと治安の悪い時期、場所でもあったし、高野さんは心配してくださり、向こうでの行動を最後まで一緒にすることを決めてくださった。数日間、撮影を見学したり、機材屋に行ったり、工房に行ったり、ユニバーサルスタジオに行ったり、充実した日々を過ごした。
私は、初めて見る特撮の現場に、興奮した。
高野さんは全てを理解していたが、私は、全くの、お客さんだった。
でも、それでも良かった。
何故なら、その時“撮影”というイメージが、自分の中に生まれたのである。

そう言えば、その時に行った機材屋でハリウッドのでかいカチンコを売っていた。
まだ現場に出ていなかった私は助監督の持つカチンコにさえも憧れていたのだ。
買おうかなあと迷っていたら、高野さんが、それを買ってくれた。
これは、私の宝物である。

コマーシャルの現場などでも、高野さんは、よく料理の腕を振る舞った。
私が好きだったのはカレー。
スタジオの隅に寸胴をセッティングし、たっぷり作る。
包丁さばきも完璧で、私が手伝えることは、カレーが焦げないようにかき混ぜることくらい。
高野さんの料理は美味しかった。
みんな喜んで、たっぷり食べた。
キムチスープ作ったり、焼き肉もやった。
いろいろと。

そんなこんなで、新作が無い時期は数年で終わった。
暇で、ノンビリしていた時代は終わった。
私は「ムーンスパイラル」「平成ウルトラセブン」で現場に行ってからは、そのあと、昨年、円谷を退社するまで休むこと無く作品を作り続けた。
休みは本当に全く無かった。
そんな忙しすぎる時、そして、行き詰まった時、思い出すのは、製作部での高野さん達との飲み会。
この世界は、上の人間が下に何かを教えるということはしない。
言葉は悪いが、“盗め”と言われる。
他人を頼らず、自分で作っていけということなのだと思う。
でも、上は、時に、ヒントをくれる。
製作部での飲み会では、いま考えると、たくさんヒントを戴いていた。
高野さんはじつは、とても優しかったし、いろいろと伝えたかったのだとも思う。
本もいただいたし。

1998年、「ウルトラマンガイア」の製作が始まる前、ティガ、ダイナと助監督でやって来た私に、別のシリーズのAPをやれ、という話がきた。
社員だし、会社としては、ゆくゆくは、予算を管理するプロデューサーになれということだ。
しかし、私は監督としてクリエイティブに作品を作りたかったし、当時の私はプロデューサーという職種に全く興味が無かった。
覚悟を決めて、「ガイア」の最高責任者、高野さんに直談判した。
製作部の前の駐車場という場所で。
私は高野さんに訴えた。
監督として、作品を作っていきたい。ガイアで監督をしたい。まだプロデューサーにはなりたくない、と。
普通の企業だったら社員が会社の辞令を蹴っ飛ばすなんて、許されないことかもしれないが、あの当時の円谷には、最強の黄金時代の自由な空気の残り香が、まだ漂っていた。
いや、今から考えれば、あれは、第二期黄金時代である。
クリエイティブな気概に満ち満ちていたのだ。
そして、高野さんは厳しく、静かに「俺は考えてるぜ」と言ってくださった。既に、私を監督に考えてくれていたのだ。
そのあと、「ガイア」でチーフ助監督をやることになり、第49話「天使降臨」で監督デビューできたのは、高野さんのおかげ(もちろん、笈田プロデューサーや、長谷川さん、村石さんもですが)なんだと確信する。

「ウルトラマンコスモス」をやっている頃、試写で私の「星の恋人」「ムサシの空」を観た高野さんが「あいつも上手くなったな」と言ってくださったということを人づてに聞いた時は感激した。
直接は言わなくても、ずっと、気にかけてくれていたのです。

高野さんによく「タケはおっちょこちょいだな」と言われました。
高野さんから見れば私なんて、ただのヒヨコ。心配してくれていたのです。
「お前はいつも同じ靴はいて」と靴をくださったこともあります。
足のサイズが一緒だったのです。靴底も革で出来ているとてもオシャレなイタリア製の靴でした。
高野さんは、本当に、とてもオシャレな人でした。
いつも周りに人が集まって来て、楽しいお酒を飲んでいました。
お世話になりすぎています。
目を閉じれば、あの頃のことが鮮やかに蘇ります。

高野さんとのことは、いくらでも書けるし、まとまらないので、この辺で終わりますが、最後に、

幼い頃、テレビで、私が初めて「ウルトラ」の特撮スタッフで名前を覚えたのは円谷英二さんではなく高野さん。
42年生まれの私にとって、特撮とは「ゴジラ」ではなくて「ウルトラマン」のことでした。
それゆえに、私にとって特技監督とは高野宏一のこと。
高野さんは、日本のテレビ特撮の全てを創った人です。
そして、ウルトラマンのスタイルを作った人です。
躍動感溢れ、リアリスティックでありつつ、ドラマティックな演出。
唯一無二。
最高です!
憧れの監督で、いつまでも辿り着けない目標の監督でした。


今頃、天国で、高野さんが兄と慕った円谷一監督達、先に行っている仲間と、いつもの楽しいお酒でも飲んでいてくれていたら良いなあと思います。
高野さん、ありがとうございました!