多峯主山難行記②―藩祖の埋葬 | blog.正雅堂

多峯主山難行記②―藩祖の埋葬

(続き)

久留里藩の藩祖・黒田直邦は享保20年(1735)3月26日の夜四ツ時、江戸神田橋の藩邸で死去し、翌月閏3月18日に能仁寺裏の多峯主山に葬られた。


儒学者でもある直邦は、その学才を活かした独特の墓所を作り上げた。明確な記録はないが、おそらく直邦自らが所望し、指示した物と考えられる。


まず、多峯主山の山頂に1万2千もの石に法華経を書いて埋めて経塚(ただし碑文は明和2年のもの)を築いた。



この風習は平安時代からあるもので、藤原道長が金峯山の山頂に経筒を埋めたものは 特に有名である。多峯主山の山頂に施された経塚も、これをルーツとしているが、近世でこれを築いた例は極めて少ないという。



だが、久留里森家の3代・森光仲もまた、久留里・妙長寺に建てた自らの墓所に法華経を書き写した石を棺の周りに敷き詰めて埋葬させており、昭和32年の発掘時には膨大な玉砂利が出土している。これも直邦の影響を受けたものだろうか。


そして、山のその中腹に棺を埋葬。棺の上には巨石を置いてこれを鎮する。


墓石は巨石の下を台形にザックリと削って石垣を築いき、その前に置いた。こうすることで、墓石の前で拝礼すると、棺は正面に来るように配置されるのだ。

透視術の心得はないが、おそらく御遺骸はこちらを向いた座棺で埋葬されているのだろう。


墓石の前に立てば、必然的に棺と対面する。

儒学を極めた直邦ならではともいえようか。

このような墓所は他に類を見ず、山腹を巧く活用した事例ともいえよう。

(続)