2008-06-23

多峯主山難行記③―森家の寄進燈籠

テーマ:我が家の家史

(続き)

久留里藩の藩祖・黒田直邦は享保20年(1735)3月26日の夜四ツ時、江戸神田橋の藩邸で死去し、翌月閏3月18日に能仁寺裏の多峯主山に葬られた。


久留里藩の重臣である、久留里森家では、直邦の21回忌にあたる宝暦7年(1757)は久留里森家3代・森光仲が燈籠を寄進、33回忌を前にした明和4年(1767)には光仲の弟光敏と、光仲の嫡男光嶢(4代)が重臣と連名で燈籠を寄進している。


譜代小藩の大名墓で、家臣の名をこれほどに刻んだ燈籠の例は少ないのではないだろうか。たとえば三日月藩主森家(15000石)の廟前灯篭などは、筆頭家老1名だけが1対の燈籠を建てるのみにとどまっている。


久留里藩は倍の3万石ではあるが、直邦をはじめ歴代の墓所に献じられた家臣の燈籠は多い。

藩祖の直邦がこれだけの廟を築いたので、その形式を引き継いだ影響もあるかもしれないが、文書以外の史料に藩士の名前が多く見られることは、子孫としても嬉しいことである。



 さて、森家の史書を紐解けば、津山藩主森家が改易されたのも、直邦が幕閣で全盛を振るっていた頃でもあった。直邦に仕えていた森光照の父は、津山藩の支藩主であった森長俊。改易当時、長俊は領国の津山に居た。


光照がどのような事情で父・長俊の許や津山藩主森家を離れ、旗本の中山家に仕えたかは定かではない。しかし、黒田家に仕えている間も、冠婚葬祭では少なからず交流があった。

森家の改易では、池田や前田、細川と言った外様大藩の取り成しもあって、分家である赤穂・三日月2家の存続が許されたが、その影には、幕閣の中心にいた直邦、ひいてはその家臣となっていた光照の苦慮を想像できなくもない。


潰される側・外様の森家に、潰す側・譜代の黒田家。その黒田の家臣となった外様の分家という構図は、究極の板ばさみである。


(続く)


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