昨日の記事を投稿したXのコメント欄に「これがきれいな核」というものがあり、世の中ではそういう捉え方をされていることが多い。しかし、日本共産党自身はソ連や社会主義の核兵器についてそう規定したことはない。それどころか、ソ連共産党の論争では、ソ連の核もアメリカの核も「同じ放射能被害をもたらす」ことを前提にしてこういう書簡を送っている。
「核実験問題は……、放射能汚染の問題だけからみることはできないのです。だからこそわれわれは、あなたがた以上に、日本国民がもっている放射能汚染根絶という要求を身近に強く理解しているにもかかわらず、たとえ同じ放射能被害をもたらすとしても、帝国主義の核実験と社会主義の核実験の階級的意義の相違を重視し……」(64年8月26日付)
米英ソは60年代初めまでの一時期、核実験を一時停止していた。それをソ連が61年に再開した際、フルシチョフは「(帝国主義)は戦火で人民を殺す一方、人民の健康についておおいにおしゃべりしている」と述べ、核実験停止に反対の態度をとっていた。ところが、それに賛成に転じると、核実験に対する態度を変更し、同じ態度を維持する日本共産党を批判するとともに、党内に分派をつくろうとしたのである。
日ソ両党がこの問題で会談した1964年の会談では、団長である袴田里見が干渉を止めるよう「要求する」と主張したのに対して、ソ連の団長だったスースロフは、「ソ連共産党に対して『要求する』とは何事か」と怒りだし、席を立って日本代表団の近くまで来て威嚇をしたそうだ。結局、会談は決裂し、日ソ両党関係は断絶することになる。
つまり、部分核停条約をめぐる問題は、2つの要素が合体している。一方では、日本共産党が社会主義の核を「防衛目的」として擁護したものであったが、他方では、ソ連との関係がどうなろうとも、61年綱領策定を通じて開始した自主独立路線を貫き、確立したものでもあったということである。
それを生みだしたのが、61年綱領そのものだった。日本革命の路線としては、自主的な探求の結果として、日本独自の民主主義革命路線を採用する。その立場があったから、ソ連の干渉にはビクともしない。
しかし61年綱領は、国際政治の見方としては、帝国主義が戦争勢力で、社会主義が平和勢力だという考え方に立った。戦後の世界を支配しようとするアメリカ帝国主義が、日本を足場にして世界を侵略する体制をつくることを企み、日米安保条約を日本に押し付けたという考え方である。その証拠が日本を拠点として、北朝鮮を侵略するために戦われた朝鮮戦争であるというのが、61年綱領であった。
すなわち、ソ連や中国の干渉に対して確固とした対応ができることと、社会主義による実際の侵略に対して「社会主義の原則に反する」として厳しい非難をできることと、しかしそれにもかかわらず社会主義「体制」の理想は失われないという見地を貫くことは、矛盾しているように見えて同じ綱領から発していたことである。
そこが理解できないと、共産党の歴史をリアルに見ることはできない。共産主義政党としての立派さと苦渋の両面が統一されているのである。
ということで、次回からは社会主義「体制」の「政治的自由」の問題に入っていく。(続)