社会主義「体制」による「民族の自由」への抑圧に対しては、ソ連のチェコやアフガニスタンに対するものであれ、中国によるベトナムに対するものであれ、日本共産党はきびしく対応することができた。それは、自主独立路線を確立した共産党の本領発揮という側面があると同時に、さすがに目の前で侵略が行われ、人々が逃げ惑う様を見ては知らんぷりができないという側面を併せ持ったものであった。だからこそ、前回書いたように、中国の南シナ海への進出がまだ「武力による威嚇」に止まっている段階とか、チベットのように「国内問題」と言い逃れる余地がある場合には、それほどきっぱりとした態度をとってきたわけではなかったわけである。
しかし例えば、実際に中国が明言している通りに台湾に対する武力解放に踏みきり、多くの血が流される場面を見ても、「国内問題」として日本は中立的な立場をとるべきと言えるのかというと、そう単純ではなかろう。社会主義「体制」の蛮行を帝国主義のそれとは区別する見方は、すでになくなっているものと信じたい。
「民族の自由」論の最後に、「民族の自由」を脅かす物質的基盤という角度で、社会主義国の核兵器問題について簡単に論じたい。すでにさんざん論じられてきたので、私に残された課題があるわけではないが、結論だけを整理するためのようなものである。
この問題では、よく知られているように、61年綱領で自主独立路線を確立して以降も、長い間、社会主義と資本主義の核保有を区別する考え方が共産党を支配してきた。いまから考えると不思議なほどである。
だって、ソ連共産党との関係が断絶したのは1964年、部分的核実験停止条約の評価をめぐってであったが、日本共産党は、「帝国主義の核実験と社会主義の核実験の階級的意義の相違を重視し」(64年8月26日付、ソ連共産党への書簡)、ソ連の核実験には反対しないという立場を貫いたのである。ソ連との断絶をみちびくとしてもソ連の核を擁護するという態度をとったわけである。
1964年に中国がはじめて核実験を成功させたとき、岩間正男参議院議員が「元来、社会主義国の核保有は帝国主義国のそれとは根本的にその性格を異にし、常に戦争に対する平和の力として大きく作用している」と述べたことも事実である。中国との関係は1966年に断絶するのだが、中国の核兵器、核実験に対する評価が変わることはなかった。
ソ連や中国との関係が断絶しても、ソ連や中国の核を擁護する。常識では考えられないことだ。
そこに多少の変化が起きたのが、1973年6月末の中国の核実験の際である。東京都議選の真っ最中で、この問題での態度が問われることになったが、宮本委員長が記者会見し、中国の核実験に反対するとして、考え方を変えた根拠を次のように述べることになる。
「ソ連のチェコスロバキア侵略という、われわれが非難した事態、残念ながら社会主義の大義に反した侵略行動がおこっている。このように中ソの国際政治における立場には変化が生じている。そういう段階で初期のように、中ソの行動がすべて無条件に防衛的なものだとか、よぎなくされたものだとは、簡単にはいえなくなってきている。」
ただ、次回述べるように、この転換も根本的なものではなかった。「いかなる国の核実験問題」も含め、この時期の対応が誤りだったことを完全に認めたのは、昨年の『日本共産党の百年』である。
なぜ転換にそれだけの時間がかかったのか。そこに共産党の社会主義「体制」論の弱点が関わっていると思う。(続)