テーマ別に短時間で視聴できるよう編集したYouTube動画の2回目です。質問されたテーマは、共産党はどうやったら大衆政党になれるか。

 

 

 

 昨日書いたように、藤野氏は、私が日本記者クラブで会見したタイミング(2月6日)について、「党から処分を受けた翌日」にやったとして、「もう非常にいいタイミングでやっている」と述べた。これを聞いた人は、処分された(2月5日)ことに私が不満を持ち、記者クラブに働きかけ、翌6日に会見が実現したと思うだろう。しかも、藤野氏はその前に、記者クラブでの会見がそう簡単に実現するものではないことを説明しているので(それは事実でもある)、何か「特別な力」が働いたかのように想像してしまう。藤野氏はさすがにこの文脈では市田副委員長や伊藤岳参議院議員のように「反動勢力」とか「反共勢力」と私の関係なるものを持ち出していないけれども、それを聞きならされている党員や読者は、その「特別な力」とはその種のものだろうと思うわけである。

 

 しかしこれは、空想の世界の話である。事実経過をただ述べるだけで、藤野氏の話が時間と空間を超えた妄想だと分かってもらえるだろう。

 

 すでに書いたように、私は『シン・日本共産党宣言』出版(1月20日)の1か月ほど前の前年(22年)末、某新聞社の日本記者クラブ担当記者に相談しにいった。そして、記者クラブの幹事会が、私を呼んでこの本について話を聞くことを決めたのは、本が出版されたと同じ1月20日のことである。

 

 私はその前日の1月19日に本の関する記者会見を行い、党首公選を求めて立候補することを表明していたが、記者クラブの幹事会が私を呼ぶことを決めた20日の時点では、まだ党の側からの反応はない。「赤旗」が私を批判する藤田健論文を掲載したのは翌21日からであって、つまり記者クラブ幹事会は、党がどう対応するかとは関係なく会見を決めたということである。そして、ホームページで会員各社の告知を行った。

 

 23日(月)、党中央の常任幹部会は、この藤田論文が「適切」だと確認する。この確認をふまえ、私を処分するための調査が行われることが決まり、25日(水)、京都南地区委員長から私に電話があって、調査を2月2日(木)に実施することが決まる。

 

 私は1月30日(月)、ブログで「日本記者クラブで講演します」と告知する。私に対する処分の内容は、2月2日の調査の結果を踏まえて決まるものだから、1月末のこの時点では、私が除名されるかどうか、党も私も誰も分かっていない。

 

 一方、党の側は、私がブログで告知した1月30日の時点では、私が2月6日に記者クラブで講演することは分かっていたはずだ。私のブログには以前から党中央の学術文化部門の担当者が目を光らせていたけれど、この時期、私を処分する動きが本格化していたから、党中央の関係者の誰もが、2月6日に私が記者クラブに呼ばれることは知っていたのだ。

 

 そして、それが分かっているのに、2月2日の調査を終えた直後、その場で、私を除名すること、そのための南地区常任委員会を5日に開くことが告げられたのである。承認のための京都府委員会もおそらく6日に開くとされた。

 

 ということは、記者クラブの会見の前日に除名処分し、会見の当日にそれを承認して除名処分を確定することは、党が意識的に決めたということなのである。「党から処分を受けた翌日」に「もう非常にいいタイミングで」記者クラブで話したという藤野氏の発言が、どれほど時間と空間を飛び越えたものであるかを分かっていただけただろうか。

 

 記者クラブでの講演テーマは、もともと本のタイトルそのままだったが、5日の除名処分を受けて、それではあまりに間延びしたものとなることを自覚した。除名が確定した日に講演するのに、除名を前提としないで書いた本の内容を紹介するなんて、間抜けのすることである。

 

 そこで私は6日朝にプレスリリースを出し、その日の講演の場で「日本共産党による私に対する除名処分について見解を表明します」と告知した。メディアが除名問題を大きく取り上げたのは、まさに党が「もう非常にいいタイミングで」処分を決めたからなのである。

 

 経過は以上だ。私が除名されたのを受けて記者クラブに働きかけて講演したわけではなく、逆に、記者会見にあわせて除名の日程を党が意識的に決めたことは、これで理解してもらえるだろう。それにしても、なぜ共産党はそんな下手な手を打ったのだろうか。これで終わるつもりだったが、気持が収まらないので、あと一回。(続)