この本のあとがきでも書いたことですが、自分の人生を変えたできごとでした。それに関連して一言。

 

 当時、私はまだ共産党中央委員会の政策委員会で働いていました。9.11は、政党にとってもどう対応するかが問われる問題でした。

 

 共産党はもちろんテロをきびしく糾弾する立場をとり、不破さんと志位さんの連名の書簡を2回にわたって各国首脳に届けることになります。それを党本部内で徹底する学習会があって、私が説明することになりましたが、率直に言って本部関係者の評判はよくありませんでした。何と言ったらいいか、因果応報というか、アメリカがテロに見舞われるのは当然の報いだと感じる人も少なくなかったのだと思います。

 

 ただ、この書簡は、20年経って振り返ると、とても大事だったと思います。アメリカの対テロ報復戦争が破綻したが故に、いまその意味が浮き彫りになっていると言えるでしょうか。 

 

 当時、いちばん大事だったのは、テロを起こしたことが明確になったビンラディンをどうするかということでした。タリバンが匿っているけれど、身柄を引き渡させて、裁判にかけることが求められていました。

 

 普通、こういうテロ犯罪は、警察力が乗り出して、司法力で裁くわけですが、タリバンが国家として匿っているわけですから、その手法は通じなかった。書簡はその現状をふまえ、警察力、司法力だけでなく、軍事力が必要であると明確にしたものでした。

 

 しかも当時、アメリカが報復戦争に乗り出そうとしているもとで、そういうやり方はテロと報復の悪循環を招くとして、国連による経済制裁から軍事制裁に至る道筋を提起したわけです。

 

 当時国連安保理は、テロに対して加盟国による51条の発動を許容していました。だから、これを口実にしてアメリカが報復戦争に乗り出すことは可能だったのですが、しかし、国連安保理が51条の発動で一致したのは、戦後何十年もの歴史のなかで、これが2回目でした。1回目は湾岸戦争の時です。

 

 そして、湾岸戦争の時は、結局、51条ではなく国連による軍事制裁ということが決められ、多国籍軍による戦争に至ったのです。安保理が一致して51条の発動を決められるということは、国連としての軍事制裁も決められるということなのです。

 

 9.11も、安保理が51条を容認した2度目のケースとして、国連によるビンラディンを引き渡させるための軍事制裁をできる可能性があった。ところが、アメリカが自分の報復感情を満たすことを優先させ、国連による一致した行動ではなく、自衛権で戦争を開始し、NATOが集団的自衛権で支援するという道に踏みだしてしまったのです。

 

 歴史にイフは持ち出してならないことは承知していますが、つくづくあの書簡の方向で少しでも政治が動いていたらなあと、いま思わざるを得ません。まあ、先日書いたように、あの書簡が軍事力を否定したみたいに振り返る立場も、別の意味で困ったなあと感じるんですけれどね。

 

 この本を手にとって頂ければうれしいです。よろしく。