国宝特別拝観と仏像
~寺院の変遷~
(撮影日2020・5・20)
縁起
詳しい縁起
歴史
現代の五條市にあたる地域は古代には阿陀郷と呼ばれた。「阿陀」の地名は『万葉集』にも見え、式内社(『延喜式神名帳』に記載された神社)の阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)があるなど早くから開けた地域であったと思われる。
栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年(719年)に創建したと伝わる。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764年)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763年)12月20日付けの「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。
栄山寺は役小角の修行地とも伝えられ修験道にも関係があったが戦国時代末期には八角堂を除く堂坊を焼失した。その後、本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建され、さらに塔頭六宇が再建された。
寺は元来は興福寺の末寺であったが江戸時代初期に一時無住寺となり、その後泉涌寺別院雲龍院(京都市東山区)の末寺となり、さらに護国寺(東京都文京区)の末寺となった。現在では塔頭も梅室院のみが残っている。
(ネットより)
●所属の華やかな末寺の変遷、最後に国分寺(東京)の末寺、流れがよく分かりませんが。
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七重石塔婆(重文)奈良時代(我が国にでもっと古い石塔婆)
塔之堂(大日堂)重文
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本堂
「栄山寺行宮跡]
本堂と石燈籠(重文)
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本堂
本堂内の仏像
撮影禁止でしたが、数々の仏像に魅了されました。
石燈籠(重文)
緑深くて癒されます~
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八角円堂(国宝)
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案内
・美しい姿に魅了されてます~
今回は、
八角円堂陣内の・特別御開帳
薬師如来坐像
(画像お借りしました)
堂内の仏像・天井画・柱装飾が見どころ・・・魅了されましたね。
満喫しました。
最後はコロナの終息を願った・・・
「アマビエ」様に会って帰りました!
栄山寺はお終いです!