「天野山・金剛寺」
所在地・・大阪府河内長野市天野町996
(撮影日2020・3・1)
この間の賀名生の里の皇居跡の名残で、南北朝時代にかかわりの深かった、(天野山・金剛寺と観心寺)に行って来ました。
※皆さんご存知と思いますが、南北朝時代のシンプルな説明…ネットからのコピーです
南北朝時代
ある時、天皇家が2つに分かれて皇位継承で揉めました。しかし、当時の天皇には権力も財力がなく何もできない。そこで皇位を勝ち取るため、2つの天皇家は権力と財力を持つ鎌倉幕府に接近しました。でも、鎌倉幕府は無茶難題ばかり言う朝廷に嫌気がさし、「皇位継承なんて知るか。面倒ごとに巻き込むのはやめてくれ」と関与には否定的。面倒になった鎌倉幕府は遂に「そんなに争うなら2つの家で交代で天皇出せばいいじゃん。めっちゃ平和だし俺天才じゃね?」と言い始め、グダグダのまま2つの天皇家が存在して南北朝時代に至る・・・
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そしてこの交互の交代制のことを両統迭立(りょうとうてつりつ)
※交互にやっていた時の系図
鎌倉時代後期の歴代天皇を以下の系図でご覧ください・・
※この方が、このゴチャゴチャを更に複雑にし戦いになった人です。
この時代は、後醍醐天皇が一癖も二癖もある人物なおかげでなんだかゴチャゴチャした時代です。
南朝と北朝の登場
●吉野に逃げた後醍醐天皇の大覚寺統のことを「南朝」
●京に残って足利尊氏と組んでいた持明院統のことを「北朝」
その後も、何かあるごとに人々は南朝派と北朝派に分かれ争いが続き、1392年、室町幕府三代将軍の足利義満の時代にようやく南朝と北朝は、北朝へ統一されることになります。
天野山金剛寺の南北朝の行在所の案内図!
上の黄色い丸・・奥殿(北朝行在所)
下の黄色い・・摩尼殿(南朝行在所)
奥に摩尼殿が見えています。
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門は閉ざされたままです・・
拝観の案内、画像が小さかった・・
(4・5・10・11)月の(土・日・祝日)のみ拝観できます。
奥殿(北朝行在所)
北朝・光巖天皇・行在所
奥殿・行在所内
天皇の御在所高貴な室内
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◎銘酒天野酒を販売して収入源とした。(酒造用のカメ)
天皇制の中でも争いのあった時代、これが南北朝時代だったんですね。近くの観心寺でもこの戦いの渦中にあった寺院でした。
簡単ですが南北朝時代の「天野山・金剛寺」でした。