前々回の「胡と漢(12)」の④について述べよう。

304年の南匈奴の事実上の独立以来胡人系北朝諸政権は次第に成長し、最後の後継者隋唐政権は最終的に軍事力によってシナを制圧し、さらにモンゴル高原・トルキスタン政権の突厥やチベット高原の吐蕃に対してまで軍事的な優位を確保し、臣従させた。

これは軍事力が強力だったからだ。「徳」でも何でもない。上層部が農耕社会出身の漢王朝が匈奴相手に大苦戦したのと比較すればすぐに分かる。

この時代強力な軍事力と言えば騎馬戦力のことだ。草原・砂漠地帯を制圧しようと思ったら、騎馬戦力が無いとどうにもならない。そして、支配階層も含めて南匈奴・鮮卑出身勢力を抱えていた唐王朝にはその戦力があった。

漢王朝は農耕社会から出てきたので、騎馬戦力を確保するのに非常に苦労した。死闘と謀略の末、匈奴の臣従を一時取り付けたが形式的なもので、匈奴を思いのままに動かせたわけではなかった。(後に東の匈奴が南北に分裂した後、その南側だけを中原に移住させて始めて匈奴系勢力の一部を意のままに動かせるようになった)

ところで、本屋で中国史関連のコーナーにおいてあるシナ史戦争モノの本はだいたい以下5つに分類されると思う。

A.三国志
B.漢楚(項羽vs劉邦)
C.漢vs匈奴
D.日中戦争
E.成吉思汗/元代モンゴル伝記モノ(シナ史と呼ぶのが妥当かどうか疑問があるが)

これ以外について書いてある本があったら、かなりマイナーな本だと思う。上記でもC.とE.はまだまだ少ないと思う。

注意喚起しておきたいことは、D.とE.を除いては「中国史上の英雄たちの人間模様を、中華至上主義的な見地・儒教的な見地から書いたものが多い」ということだ。全部ではないが。中華至上主義で書くと必ずといっていいほど、「徳で統治する為政者が善=善玉は徳を持つ人物だった」という色分けが入ってくる。こういう書には本当は十分注意しなければならないと思うのだが、とても多い。

mattは司馬遼太郎の「項羽と劉邦」および「吉川三国志」を高校時代に読んだ。大学生になってから歴史小説を読まなくなった。ノンフィクションばかり読むようになった。今から思い返すと、シナ社会とそのイデオロギーの恐ろしさに感づいていたのだろうと思う。

歴史小説は楽しい。のめりこみたくなる。だが、歴史の真実が書いてあると思ってはいけないと思う。あくまで娯楽と割り切るべきだと思う。

例えば「吉川三国志」なら、最初から劉備が善人・徳のある人物として描かれている。現実の歴史では、蜀の存在は瑣末なものに過ぎない。重要なのは魏だ。魏晋政権と呉との対立を主軸に書くべきだし、それと胡人の動向を合わせて書くべきだ。

「漢vs匈奴」も、漢の側の英雄について書いてあるのがほとんど。漢が非常に苦戦させられたことの理由を深く掘り下げている本はほとんどないといっていいだろう。なぜ匈奴が強かったのか? そんなに「徳」が重要でかつ漢の側に「徳」があるのなら、最初から匈奴が恭順してくるはずではないか。実際はそうではない。そういう疑問は誰も提示しない。

魏晋南北朝期の南匈奴・鮮卑系北朝政権について書いてある本は僅少だ。隋唐政権について書いてある本はいくらでもあるが、隋唐政権がなぜモンゴル高原やトルキスタンへの遠征を実施し、かつ唐王朝が最終的に成功できたのか、という観点で評価している本はほとんど見当たらない。漢王朝との比較など誰もしていないようだ。

隋唐政権絡みの歴史モノと言えば、

・煬帝の悪政
・唐太宗(二代皇帝李世民)の善政(貞観の治と呼ばれる)
・安禄山が反乱を起こしたときの、玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇

といったことがよく取り上げられる。歴史小説やアニメーションやTVドラマのノリを超えていない。そういう本が出るのは別に構わない。それだけが歴史そのものだと思われるのが困るのだ。政治家・財界人・自衛官・学者・高級官僚といった人たちにそう理解されるのはまずい。(註1)

儒教的価値観混じりで人間模様ばかり追いかけているシナ歴史モノの本はたくさんある(註2)。みなさんには十分注意されたい。無意識のうちに、「勝った側に元から徳があって正義だったのだ」とか、「胡人が野蛮で漢人の側が正義だ」とあなたは誘導されているかもしれない。

(投稿後に加筆)
思想的・イデオロギー的な面を強調して正統性を主張し、軍事的な側面は背後においやってしまう。その手に乗っていると、真実はなかなか見えないと思う。

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註1: Rogers の言うように投資家も歴史を勉強するなら、歴史小説のノリで満足するのは危険だと思っているのだが。

註2: 歴史を分析するときは、一旦人間関係のドラマを捨象する意識を求められると思う。

では、前回の①~⑥について論じていこう。まずは、①~③について。

少なくとも北方の遊牧騎馬民/半農半牧騎馬民にとって、中華の地の経済力は魅力的だったはずだ。遊牧や粗放な農業の生産力はしれている。維持できる人口も少ない。シナの地は農業がずっと発展していて余剰が生産されている。そこへ行けば「食える」。

牧畜社会では、乳製品を中心に食する。急に穀物ばっかり食えといわれてもなじまないだろう。しかし、世代を下れば次第に食事に慣れていくだろう。

司馬遼太郎が「アメリカ素描」という随筆を昭和63年頃?に書いている。彼は文明論をものしている。「文明の成立条件は『そこへ行けば食える』ことだ」と喝破している。mattもその通りだと思う。広大な農地を確保でき、農業生産が豊富で余剰を得られる社会。そこへ周囲から異種族が入り込んで在地の社会と様々なinteractionを重ねた中から、誰にでも通用する普遍性の高い文明が出てくる。司馬はそう指摘している。

騎馬民にとっては単に食えること以上の魅力を農耕社会の富は提示している。衣類とアクセサリー類は、特に遊牧民にとっては魅力的なものだ。布類は牧畜生活からは手に入らない。皮革類だけで衣服を作ることは不可能ではないが、繊維製品がある方が便利であるのは間違いない。また、遊牧民はアクセサリー好きな連中だ。特に金細工は大好きだといっていい。匈奴が登場するよりずっと前から、モンゴル高原~トルキスタン~シベリアで青銅製のベルトのバックルやナイフ、鍋、矢じりなどが使用されている。たまに金銀製の冠やバックルなどが出土する。遊牧民の権力者には、農耕社会の富を手に入れたいという欲望は常にあるだろう。

シナの地に入り、衣食が同質化し、漢語を受け入れると、周りの農耕民と次第に同質になっていく。これは避けがたい。南匈奴、鮮卑などは結局そこまで行った。それどころか、隋唐まで来ると鮮卑の側から積極的に「自分は漢人だ」と主張するようになった。北周までと異なり、姓名を漢人風にし、出自がもともとから漢人であるかのようにふるまった(註1)。結果、「我々は匈奴/鮮卑系である」と声高に主張する人々は隋唐以後いなくなってしまった。唐の2代皇帝李世民になると、はっきり儒教的秩序観を反映した君臣関係を意識するようになった。だから「貞観政要」が編纂されたりした。

ここまで来ると、もう遊牧の昔には戻れない。

こういう同化プロセスは、現代では内蒙古自治区のモンゴル人や満州人に見られると思う。

日本ではモンゴル国(外蒙古)のモンゴル人が相撲界で目立つので、彼らがモンゴル語の名前を名乗っていると思うかもしれない。外モンゴルではそうだ。しかし、内モンゴルでは多くのモンゴル人が漢人風の姓名を名乗り、漢語を普通に話す人が多くなっている。モンゴル語自体は内蒙古でもまだ生きているが。

同化が進行していることを反映していると思うが、内蒙古自治区で独立運動が起きたとは聞かない。この点、新疆ウイグル自治区とは異なる。ただし、内蒙古自治区の人口密集地は首都北京に地理的に近く北京軍区の管轄下にあるので、軍事力によって反政府運動が強力に抑制されている可能性は一応あると思う。

満州人は、中共政権下の現在でも一応少数民族扱いされているが、彼らはすでに満州語をほぼ失っており、満州語は死語となりつつある。もちろん漢人風の姓名を名乗り、漢語を話す。(註2)

「胡」とされる集団で、後日書くつもりだが、契丹や清代までのモンゴルは、シナに隣接しながらも同化しなかった。突厥や古くは南北分裂前の東匈奴もシナに同化しなかった。やはり、地理的・物理的ににシナの領域に組み込まれず独立を保っているかどうかが、同化されるかされないかに大きく影響すると思う。生産力が低いと人口も少ないから、長い目で見ると人口比でシナ人に負けて同化されてしまう。

南匈奴や鮮卑が最終的にシナ社会に同化されてしまったのは、中原に自ら入り込んでしまい、農耕民に人口比で負けてしまったことが大きく影響していると思う。その上、政治的な必要性(?)から、自ら「われわれは中原の支配者にふさわしい、昔からの漢人だ」と最後は自称しているのだ。

朝鮮民族は文化的に同化する方向性・政治的に従属する方向性を選択したとmattは考える。古代においてはトゥングース系言語の名前があったようだが、高麗から完全に姓名を漢語式に変えてしまった。言語的は現代に至るまで完全には同化しなかった。漢語を取り入れたのは宮廷と知識人だけで、一般庶民は漢語を使えなかった。朝鮮半島はシナ政権の直接統治を受けた時期はあるが比較的短く、間接統治でとどまったから、完全な同化を免れてきたのだと思う。

日本の歴史を振り返ると、聖徳太子以来(?)日本人はおおむね中華の文明から距離を置き、文物を取捨選択して輸入し、和風に作り変えてきているのが通常の状態だ。mattは今後とも大陸に日本が深入りしないよう願っている1人である。

逆にシナ人の側から見ると、4月15日の「ちょっと日経(4)」で述べたたように、日本人が中華の文明に参加することには原則として障害は無いと思う(註3)。むしろ、日本人がどうしても参加しようとしないことが不可思議に見え、かつ「儒教的秩序=華夷秩序」を日本人が受け入れようとしない現れと見て、内心不愉快に思っていると思う。朝鮮民族のようにシナの側に引き寄せられ過ぎないよう、我々は心しておくべきだと思う。

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註1: 唐王朝の出自が遊牧民であることを示す証拠とmattが考えている事象が2つある。

1つ目は、唐の初代皇帝の娘が「1万の精鋭を率いていた」という記録があることだ。遊牧民は女性も従軍する。有力者の一族に所属する女性なら、部隊の指揮を任されることもある(註4)。こういうことは、シナ伝統農耕社会ではあり得ないことだ。

2つ目は則天武后だ。彼女は二代皇帝の後宮に入り(日本風に言うと、側室になった)、二代皇帝の死後尼になっていたが、その息子三代皇帝に召されて後宮に入り、元からいた皇后を失脚させて皇后になった。政治の動きを捨象して男女関係だけ見ると「父親の側妻だった女性が未亡人になったところで、息子が目をつけて側妻にし、その後本妻にした」ということだ。3月4日の「華夷秩序・民族意識」という投稿で述べた「嫂婚制」の影響があったのだと mattは考えている。「嫂婚制」は遊牧民の習慣だ。

註2: NHKの新シルクロードで放送されたが、新疆ウイグル自治区には「錫伯族(シボ族)」と呼ばれる少数民族がいる。彼らは遼寧省瀋陽近辺の出身で、清代に皇帝の命令で新疆へ移住・駐屯し、清滅亡後もそのまま住み続けている。満洲語の方言とされる言語を今でも話している。現在北京では清代史の編纂作業がなされているが、錫伯族の人が北京へ呼ばれ、編纂作業に参加しているそうだ。本家の満洲人が満洲語を使えない現在、貴重な満洲語の使い手だ。

註3: 唐朝において阿倍仲麻呂が他の漢人官僚と同じように一官僚として扱われたように、日本出身であっても儒教的教養を積み、その価値観に基づいて行動すれば、受け入れられるわけだ。

註4: 騎馬民族征服王朝説では、神宮皇后による三韓征伐の伝承が存在すること自体が「日本の皇室の出自は騎馬民」たる証拠の一つだとしている。

フランス人の反応を見てから、次の手を考えることにしよう。

今週の取引: none
今週末のポジション: EUR/USD @1.2637 売り
今週末の実勢: EUR/USD @1.2582前後 | USD/JPY @107.90前後 (05:50, 05/28/2005 JST)

もう一度整理すると、

儒教の教養を持っていることを基準に選抜された者が官僚機構を構成し、皇帝の指揮の下、統治に当たる。

基本構成(建前)は、

皇帝

官僚機構

一般庶民

というピラミッド構造。

官僚は主に地主出身者。(儒教的教養を積むためには普通経済的余裕が無いといけない)

皇帝と官僚が社会を調節し、社会の破綻を防止する。シナ伝統社会には、基本的にこの2つしか社会の破綻を防ぐ調節機構が無い。

それでは、「意識しておくことが、現代の日本人にとって有益」とmattが考えることを以下に挙げる。

① 「中華の文明」は(少なくとも過去においては)同化力がかなり強く、「胡」の側は時間はかかっても最終的には漢人社会に同化してしまった。逆に言うと、「中華の周辺にいる異種族(ヤマト民族も含む)」の側としては、同化されたくなかったら、領土でも、人口構成でも、言語でも取り込まれないようにしないといけない。

② 上記①の裏返しだが、漢人の側にとっては支配者が中原の農耕社会出身かどうかはそれほど重要ではない。要は、「自分は漢人、中華の側にいる者だ」と自称し、「中華の文明」の原則論を受け入れればよい。言い換えると、異種族が中華に参入したいのならそれは可能である。積極的に同化すれば支配者としてすら受け入れられ得る。

③ ヤマト民族も含めて、中華の周囲にいる異種族は、上記①あるいは②のいずれを選択するか考えておくべきだ。日本は伝統的に①を選択してきた。(註1)

④ 文献がどんなに言葉で飾られていようが、シナの政治を考える際に軍事力を除外することはできない。騎馬民出身者であっても、為政者は「徳」によって統治しているかのようにふるまいたがる。権力者の発言や宣伝の中から儒教的言辞を排除したところで、権力政治の要素として何が残るかを抽出して考えることが重要だ。儒教的言辞だけ考えればよいわけではなくなったが、この考え方は現在も重要だと思う。

⑤ 政治・戦争の手段として外国の勢力を国内に引き入れることは、シナの歴史においてはしばしば見られる。(隋唐統一政権の成立には突厥の影響が大きい。これについては後日述べる)

⑥ あなたがシナの歴史について、「何千年も偉大な統一王朝が続いた」印象を持っているとしたら、その認識は甘い。確かに統一王朝は史上何度も登場した。しかし、ばらばらになっている時期はかなり長い。地域地域で割拠しやすいということ、そして割拠したり統一したりと政治変動プロセスが起こる度に激烈な戦争が発生していること、を頭に入れてシナを観察するべきだ。

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註1: 「胡と漢」を越えた話になってしまうが、明治維新以来、日本人はシナ中心の東アジアの秩序=冊封体制に対する挑戦者だった(註2)。シナに対する元朝貢国だった東~東南~中央アジアの国々・諸地域に対し、今後も引き続いて「対等な主権国家どうしの国際関係の原則論の構築」をわれわれは働きかけていくべきだと matt は考えている。blog 上で華夷秩序についていろいろ述べているのも、こういう問題意識があるからだ。

註2: このことを日本の大手メディアの大半は理解したくないように見える。我々が「臣従」しない限りシナは根本的には満足しないだろう。日本人どうしの間で「心情的な歩みより」で成立している「仲の良さ」を日中関係(だけでなく、国家間の関係一般においてそうだが)に期待するのは誤っていると考えている。そんな生易しい世界ではないと思う。

「胡と漢」シリーズの目的は「歴史上何が起こったかを書き連ねること」ではない。

「現代の日本人がシナとの関係を構築するに役立てることを狙って、シナ史上の中華(農耕社会)と夷=騎馬民(牧畜社会)の関係を分析すること」が目的だ。

前回まで、2世紀末から8世紀半ばまでの「遊牧民と農耕民との関係」を一通り説明した。本題に入る準備がある程度できたので、「歴史上何がおこったか」を時系列的に記述することは一旦休止しようと思う。

政治変動の変遷を簡単にモデル化しよう。

農耕社会政権(漢王朝)が地理的に拡大する

遊牧民政権(匈奴)と接する

「遊牧社会 vs 農耕社会」の戦争状態となる

遊牧民政権が分裂する(註1)

分裂した一部が農耕民政権に臣従する

農耕民政権がその領域内に遊牧民社会を包含する

生産力に劣る遊牧民社会が差別される

農耕民社会に何らか広範な紛争・騒擾が起こったとき、遊牧民社会が反乱を起こす

遊牧民は軍事力は強力なので政権を握るが、内紛を起こしやすく一時的な支配になりやすい(註1)

政権を延命させるべく、胡と漢の融合を試みる

(経済的に優勢で軍事的に劣勢な)農耕社会を基準に融合しようとした試みは失敗

(軍事的に優勢で経済的に劣勢な)遊牧社会を基準に融合する試みは成功

(制度上遊牧社会を基準に融合したといいつつ、姓名・言語・衣食等、生活文化上は漢化が進行する)

牧農統一政権が誕生する

牧農統一政権は、草原の遊牧地域にまで勢力を拡大する(大発展する)

再び、農耕社会に別の牧畜社会・別の社会的勢力を持ち込む誘引となる

次の社会分裂への引き金が用意される

こういう感じか。(註2)

この時代/このモデルに関して、「現代の日本人が意識しておくべき」とmattが考えていることを次回述べよう。

また、これまで書いていてその他気づいた点について順次述べていこうと思う。

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註1: 遊牧民社会には分裂しやすい傾向がもとからある。遊牧民社会の性質については、「その他気づいた点」の一つとしていずれ説明する。

註2: (ひょっとしたら読書が足りないのかもしれないが)こういうモデル化の努力をする歴史学の研究者を見たことはまだほとんどない。裏ブログで金観涛・劉青峰夫妻の書を取り上げているが、この夫妻くらいのものだ。ちなみに金観涛(夫)の方はもともと化学専攻だ。

唐王朝がモンゴル高原・トルキスタンの広大な草原地帯(と砂漠)を短期間ながら間接支配下に置くことにより、以下の結果が生じた。

1.突厥の支配下にいた遊牧民諸部族が、華北あるいはその近くに移住してきた。(註1)

2.ペルシャ人・ソグド人のオアシス都市間交易ネットワークが華北にまで伸びた。(註2)(註3)

同時期に、武川鎮軍閥の外部から唐政権中枢に入った人物(註4)が、武川鎮軍閥の外部ばかりから人材を登用する人事を行った結果、君主一族と関係の深い者が軍隊上層部を占め、同時に文民政権上層部も占める、という体制が崩れた。この結果、軍隊の指揮権が、臨時に設置した地方指揮官(註5)の手に中央政府の手から次第に移っていき、地方指揮官が割拠自立するのを少しずつ抑えられなくなり始め、唐王朝の弱体化へとつながった。

こういう環境下で西暦755年安史の乱が起こり(註6)、唐王朝は名目はともかく実質的には一地方政権に落ちぶれ、シナは再び事実上の分裂状態になった。南匈奴に始まり鮮卑まで続く「五胡」系列の騎馬民がシナ農耕民社会に根を下ろして築き上げた政権は、ここに事実上終わりを告げた。(註7)

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註1: 華北に移住してきた遊牧民のうち、特に沙陀(サダ)と呼ばれる集団が華北(特に現在の山西省)の強力な政治集団として後に浮上した。8世紀~10世紀において重要な存在で、唐末の内乱鎮圧や10世紀の北宋建国に至るまでの華北の諸政権「五代」の興亡に重要な影響を与えた存在。いずれ述べる。

註2: ちょうど同時代にイスラム教ウマイヤ朝がササン朝ペルシャを滅ぼした。このため、イラン高原とトルキスタンにいたペルシャ系住民が大挙東へ亡命した。ササン朝君主一族も含めた一部の人々は長安にまで亡命してきている。

また、ペルシャ人とほぼ同系統とされるソグド人は、トルキスタン諸都市間の交易に古くから従事していた。この時代、ソグド人の交易ネットワークは、マンチュリアにまで及んだ。

註3: ソグド人/ペルシャ人と遊牧民との混血も当然にあったろう。そういう混血社会から登場したのが安史の乱で有名な安禄山(と史思明)である。(註8)(註9)

註4: 則天武后のこと。彼女の経歴は唐王朝が半分遊牧社会から出てきた政権であることを示唆しているが、ここでは省く。シナ史上唯一の女性の君主だったことのみ述べておく。

註5: 「節度使」と呼ばれる職位。「~方面軍指揮官」と理解しておけばよいだろう。

註6: 安禄山は玄宗皇帝に登用され、現在の河北省・遼寧省・山西省を統治する節度使に任命された。唐王朝のために周囲の騎馬民を掃討したあと、それら騎馬民を自己の部隊に引き入れ、唐王朝最精鋭の軍事力を持つに至った。中央政府と対立して反乱を起こした。中央政府の宰相(楊国忠という人物)が安禄山の軍事力を警戒して対立したのが反乱のきっかけということになっている。

註7: 唐王朝は907年までさらに150年近く細々と存続する。

註8: 3月4日の投稿で、「安禄山はソグド人男性と契丹人女性の間の子」と書いたが、「ソグド人男性と突厥系女性との間の子」に訂正する。

註9: 「安」も「史」も、シナ社会におけるソグド人の姓。他に「康」という姓もある。3姓とも、現在のウズベキスタンにある都市の漢語名にちなんでいる。歴史上の人物でこの3つのどれかの姓を持つ「中国人」を見つけたら、ソグド人かどうか疑ってみると面白いだろう。


隋は華北・華中・華南の農耕地帯を制圧すると、次に牧畜地帯(モンゴル高原・チベット高原・トルキスタン・マンチュリア)の制圧に乗り出した。(註1)

モンゴル高原と西域の東側は当時(西暦600年頃)遊牧民政権「突厥」(註2)の片割れ「東突厥」(註3)が支配していた。隋は東突厥と同盟関係を構築できたらしい。

チベット高原北部の政権(註4)を屈服させた。

隋は東への軍事行動で失敗した。マンチュリアと朝鮮半島の一部を支配していた高句麗を攻撃したが失敗し、多大の損害を出した。(註5)

内政面では、初代皇帝楊堅が政権奪取した当時の施策が悪影響を及ぼした。前政権の君主一族宇文氏を殺しまくった。このため、もともと楊一族が政権基盤としていた武川鎮出身者とその子孫たちで構成された「胡漢連合体=武川鎮軍閥」の構成員たちを敵にまわすことになってしまった。

高句麗遠征失敗後、武川鎮軍閥の出身者李淵(註6)が反乱軍を起こし、楊一族の政権を倒して権力を奪取し(註7)、唐王朝が成立した。

唐王朝は下記の領域へと次々に侵攻し、農耕地帯・牧畜地帯にまたがる広大な勢力圏を確保した。(註8)

・モンゴル高原 ⇒ 内部分裂に乗じて東突厥を屈服させた
・チベット高原 ⇒ 吐蕃と講和
・トルキスタン ⇒ 鉄勒・西突厥を臣従させた
・マンチュリア&朝鮮半島 ⇒ 新羅と共同して百済を滅ぼした後、内紛に乗じて高句麗も滅亡させた

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註1: 現在の中国東北地方を敢えて「マンチュリア」と表記することにした。

註2: 「トックツ」あるいは「トッケツ」と読む。今で言う「トルコ」を意味する「Turk(テュルク)」の漢語音訳という説が強い。突厥が東西に分裂した後、漢語文献に「鉄勒」と記述される遊牧民政権が登場したが、これも「Turk」の漢語音訳と推定されている。

もっとも、鉄勒はもともと突厥の支配下にいた一部族らしいので、少し混乱があるようでもある。いずれにせよ、これら突厥・鉄勒滅亡後、中央アジア系遊牧民は一般的に「テュルク」と呼ばれるようになり、地域名もペルシャ語で「トゥルキスタン」と呼ぶようになって現在に至っている。

註3: 隋の初代皇帝楊堅が北周宇文一族から政権奪取したころ、モンゴル高原・トルキスタンからはるか西方ヨーロッパロシアの一部まで支配していた突厥が東西に分裂した。

註4: 「吐谷渾(トヨクコン)」。先祖は鮮卑らしい。チベット高原の言語はチベット系言語が支配的で、「シナ・チベット語族」といって漢語と親戚関係にある。が、当時吐谷渾が支配していた現在の青海省付近にはモンゴル語などが属するアルタイ語族系言語が分布していることが地図帳などに出てくる。吐谷渾の末裔の影響だと考えている。

註5: 運河工事への徴用と並んで兵役負担も重かったらしいのだが、対外軍事活動の失敗で、兵役・徴用負担(公共工事への徴用は広い意味での税負担と言えるだろう)が正当化されなくなってしまった。

註6: 李一族も先祖は鮮卑系あるいは胡漢混血と疑われている。李淵の祖父李虎は武川鎮出身。李淵の実母は前回述べた匈奴系独孤一族の女性。この女性と楊堅の妻は姉妹。

註7: 西暦618年。

註8: モンゴル高原を中心とする牧畜地帯を勢力下に置けた時期は西暦630年頃から50年間ほど。