久しぶりに US Dollar Index のチャートを見てみた。
5月13日のレンジ上抜けから3週間と1日経過した。これからもまだまだ上下するだろうが、とりあえずドル高トレンドがはっきりしてきていると思う。
JPYに対してもドルは上げてはいるが、対欧州通貨ほどではない。欧州通貨に対してはドル高トレンドがとりあえずはっきり発生していると思う。
メディア上でずっと取り上げられ続けている「USD/CNYの下げ」(および「USD/JPYの連れ安」)は、まだ実現していない。US財務省が「6ヶ月後」と言ってしまったので、11月までに何か動きがあるかという見方もできなくはないが。
今のところは「EUR/USDの売り」継続。下げトレンドが続く限り。
CNY次第では「EUR/JPYの売り」を検討するかもしれない、というところか。
もし、ドルが「対欧州高+対アジア安」を同時に実現するのなら、ものすごい調整を今年することになるが。
5月30日(月)「胡と漢(17)」の投稿の①について。
騎馬民、特に遊牧民は分散して暮らす必要が元々からある。
モンゴル高原やトルキスタンの草原は乾燥しているので、草の生育も日本で雑草が生えるような旺盛なものではない。家畜が一箇所に集中し過ぎると草を食い尽くしてしまう。核家族~数家族ごとに散居することになる。
本来散居する人たちが集団を形成するのだからかなり人工的な努力と言える。それだけの有利さがあるからだ。集団なら軍事力として強力になる。力を集中すれば、農耕地帯やオアシスを圧迫してその富の一部を獲得することも可能になる。(註1)
遊牧民にとっては家族レベルであっても集団の指導者の人選は重要だ。指導者の才能次第では、他の集団からの攻撃にあったり、季節移動ルートを誤って(草地の選定を誤り)家畜を死なせてしまうかもしれない。優秀な指導者を見出せば新たにそれについて行くことがあっという間におこる。
匈奴、柔然、突厥、8~12世紀のウイグル(註2)、契丹、モンゴル... 遊牧騎馬民政権は突然登場することが多いが、こういう背景がある。
「胡と漢(17)」の②について。
遊牧騎馬民政権はしばしば内紛を起こす。隋唐政権興隆の機会を与えてしまったりしたのは、突厥が内紛を起こしたからだ。匈奴にしろ、突厥にしろ、モンゴルにしろ、東西・南北にしばしば分裂したが、これも内紛の起こりやすさと関係がある。
君主の一族でも相続の順位は明確には決まっていない。遊牧民は男系相続であることは一貫している。が、兄弟間の順位は決まっていない。強いて言うと、末弟が比較的有利なことが多い。が、多少有利であるにすぎない。基本的には実力本位の世界だ。
末弟が有利なのは、政権が拡大する際、君主が息子たちに軍隊を率いさせて次々遠征することと関係がある。遠征して外地に次々と兄弟が出て行く。すると年少の者が君主のそばに残る。君主が病死(註3)すると、年長の兄弟達が戦地に釘付けにされることが多いので、君主のそばにいた年少の者が相続争いでは有利になることが比較的多い、ということだ。
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註1: かならずしも農耕社会から略奪するとは限らない。オアシス間の交易に従事することもあれば、政権を形成してオアシス都市や農耕社会を傘下におさめ、徴税により富を獲得することもある。
註2: この時代のウイグルと現代のウイグル人とは同じではない。後日755年以降の歴史について説明する際、8~12世紀のウイグルから話を始めるので、そのときに説明したい。
註3: 農耕民より遊牧民の方が老化が早い。40歳ともなれば老人だ。現代は近代医学がそれなりに浸透しているとは思うが。
5月30日FT.com記事 <http://news.ft.com/cms/s/2a2a9bfc-d0e4-11d9-9c1d-00000e2511c8.html
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5月31日FT.com記事 <http://news.ft.com/cms/s/b78ceb3e-d239-11d9-8c82-00000e2511c8.html
>
今夜はオランダ。じっくりEUの将来を考えさせてもらおう。
2つ目の方の記事は、文章が乱れ気味な感じがする。執筆者名も記載されていない。UK含め欧州人にとっては日本人が考えている以上にショッキングなことなのだろうか。
大きく見てUS経常赤字を重視する考えに今のところ変わりは無いのだが、今年の後半について言えば、欧州→USと資金が流れると観測する理由が増えた。
mattにとっては思いもよらなかったことだが、昨日は東京時間に一番激しく動いた。FXを始めて1年と4分の3。まだ短い期間だが、初めて見た。15年以上前はこんな毎日だったのだろうか。そういう日が来てくれると、あまり夜更かしせずに相場を張れるのかもしれない。それまでに稼げるようになっておきたいものだ。
中国でもっとも驚異的な謎は何かと問われれば、「軑侯利蒼(たいこうりそう)夫人のミイラ」と答えたい。
このミイラは、内臓が完全に残っており、筋肉が張りを残していた。エジプトのミイラなどはこれと比べたら粗悪なものだ。腐敗を防ぐため内臓をとりだしてあるのだから。
しかも発見された場所は、湖南省長沙市近郊の馬王堆墳墓。湖南省は日本の太平洋側同様高温多湿な夏がある。それでも内臓を摘出していないミイラが紀元前168年以来約2千年間腐敗しなかったのだ。これはすごい。
そのミイラは黄色い液体の中に浸されていた。その液体の成分はまだ分析されていないそうだ。
ハウスドルフとクラッサの本には写真が載っている。
前回の「胡と漢(16)」にて、「南匈奴+鮮卑がシナ社会にどう影響したか」およ び「そこから得られる日本人にとっての教訓」について、見解を一通り述べ終わった。
あと3回ほど、「胡と漢」シリーズを読む上で知っておくほうがよい予備知識を説明しておく。そこで一旦お休みとしたい。(西暦755年以降については、再び書く気がおこったときに書く)
「騎馬民社会/政権がどういう性質を持っているか」についての話だ。シナ社会に影響を与えた騎馬民/胡族政権を理解し易くしてくれる。
以下のようなことだ。
① もともと「分散型社会」であり、散居し易い傾向がある。しかし、一旦優秀な指導者が現れると、急激に人が集まる。
② 相続に明確な基準がないので、相続争いがおこりやすい。
③ 自動車が登場するまで馬は強力な戦術兵器であり、豊富に有する騎馬民政権は強力な軍事力を誇った。ただし、高温多湿な気候には比較的弱い。
④ 長距離の移動に便利なライフスタイルを持っている。これは軍事活動に影響しており、「長距離の機動戦」や「大陸を横断するような超長距離の移動」も平気である。
⑤ 「純粋遊牧騎馬民」と「半農半牧騎馬民」が存在する。歴史全体を通してみると、シナ社会との「距離のおき方」が少し異なるように見える。
次回から順次説明する。
5月29日付FT.com記事<http://news.ft.com/cms/s/4110f030-d069-11d9-abb8-00000e2511c8.html
>
さあ、否決された。
明日のLDN時間から観戦させてもらおう。
畏れ多いことを敢えて書く。
せっかくトラックバックステーションの話題設定があるので、敢えてこの話題をこのブログテーマで論ずる。関連はありありだ。
以下、mattの私見だ。
(1)日本の天皇制には、シナを中心とする「華夷秩序」へのアンチテーゼという面がある。シナ人の概念ではこの世に皇帝(天子)は一人しかいない。シナの周辺はすべてシナの皇帝に臣従すべき存在で、シナの皇帝に臣従すれば「王」の称号を与えてもらえる。しかし日本は天皇制を持っている。「皇」という文字を使った時点で、重大な自己主張をしている。「シナとヤマトと対等だ。お宅の支配下には入らないよ」という主張だ。この主張をした上で、距離をおきつつ文物だけ輸入する方針を(ほとんど無意識のうちに)ずっととってきたのが日本である。
(2)こういう伝統がある以上、皇室の伝統は何につけできる限り存続させてほしい、というのがmattの意見。「シナ人から見て、日本の皇室の正統性に傷がついたように見える行為はできるだけ避けたい」という考えだ。それもこれも、「長い目で見てシナに同化されないため」であり、「動乱リスクを伴う社会から、できるだけ距離をおきたいため」だ。この意味については、このブログ上の同じブログテーマに属する「胡と漢」シリーズを参照いただきたい。
(3)皇室の伝統のもっとも核の部分は「男系相続」ということ。「女系」の前例は無い。日本社会の民間とは違う。一方で「女帝」の前例はある。「女性天皇は是か非か?」と聞かれたら、是に決まっている。この点について皇室典範を改正しても伝統に反しない。だが「女系を認める選択をしよう」と言われたら、「その選択の前にやるべきことがあるだろう」と思う。昨今の女性天皇に関する報道はこの点を混同している。無意識に混同しているのか、意図的に混同しているのか、よく分からないが。(誰かが意図的に混同させている可能性は一応あると思う)
(4)伝統を存続させるに最も良い選択肢は、「旧宮家を復活させること」或いは「生殖医療を総動員する」だと考える。このいずれかが伝統を一番損ないにくいと思う。
(5)他の選択肢としては、1)側室を置く、2)女系を認める、3)大統領制にする、の3つがあると思う。側室を置くのは(全員ではないかもしれないが)女性の有権者の反対を招くだろう。女系を認めることと大統領制にすることは、どちらも皇室の伝統を断絶させることでは同質だ。
(6)「側室を置く」以外の選択肢は、宮家の復活にせよ、女系にせよ、大統領制にせよ、前例のないことばかりだ。もっとも、皇室への先進的な医療の適用自体は広い意味で前例が無いとは言えないかもしれない。過去には「臣籍降下」はあったが、「一旦、民となって、皇(おう)に返り咲いた」前例は無い。こういう政治的・伝統的に前例の無いことをやるには、天皇陛下に一言「旧宮家を旧(もと)に戻す」と宣言していただくのが良いと思う。例えがいまひとつだが、秀吉が関白になるとき豊臣という新姓を創り、「新例とする」との後陽成天皇宣下により実現した。旧宮家復活も、国会で議論し尽くした上で、国民の総意として陛下に「旧に戻す宣言」を奏上するのがよいと思う。
以上の見解の中核部分は、プロパンガスさん<http://propanegas.ameblo.jp/
>が骨太に論じておられるので、そちらを参照されたし。ここでは、「日本のidentityには『華夷秩序の否定』という面が含まれている」という観点を補足することとした。
5月25日の「胡と漢(12)」の⑥について。
「秦漢帝国~魏晋南北朝~隋唐帝国」について、「統一」と「内戦」はこういう具合に交互に発生している。「内戦」は「割拠」と言ってもよい。
統一:221BC-209BC(12年)
内戦:209BC-202BC(7年)
統一:202BC-AD6(208年)
内戦:AD6-25(19年)
統一:AD25-107(82年)
内戦:107-111(4年)
統一:111-184(73年)
内戦:184-280(96年)
統一:280-306(26年)
内戦:306-589(283年)
統一:589-612(23年)
内戦:612-621(9年)
統一:621-755(134年)
内戦:755-907(152年)
あくまでmattの独断と偏見に基づく区分だが、まあまあこんなものだろうと思っている。
上の区分は「内乱が起こっているかどうか」或いは「分裂割拠しているかどうか」が基準になっている。China proper の外に対する対外戦争を起こしているかどうかは考慮に入れていない。対外戦争は往々にして統一期に起こっているので、ほとんどいつも戦争しているようなものだ。激しい歴史だということが分かっていただけるだろうか。
「内戦(割拠)」の破壊力はすさまじい。統一期が長続きし、平和が続き社会に生産力が蓄積されてくると人口も増える。正確な人口はよくわからないのだが、後漢に最高で5千万程度にはなったらしい。三国時代にはその7分の1程度まで落ち込んだようだ。その間数十年だったとは言え、社会全体の8人中7人がいなくなるなどということは想像しにくい。
おまけに魏晋南北朝期は南匈奴・鮮卑・羌や、南方の南越系?(原始タイ系の人々か?)異種族も戸籍にとりこんでいるので、少数民族が大幅に増えており、地域にもよるが全体で全人口の数十%を占める規模だったらしい。これで人口が7分の1程度まで落ち込んだわけだから、漢代に戸籍で捕捉されていた人々が9割方どこかへ消えてしまったことになる。
どうやってどこかへ消えたのか?
・兵士は戦闘で死んだ
・一般庶民は戦争に巻き込まれて死んだ
・飢饉が起こって飢え死に
・伝染病が流行して病死
・共食い(文字通り人間どうしが食い合う。シナではときどき起こる)
・逃げた/移住した(役所が捕捉できず戸籍に登録できなくなった)
といったことが主な原因だろう。
漢書にはこう書かれている部分がある。「秦から漢にかけてのわずか8年の間に、全国の人口は2千万余から1千万前後と、半数以下に激減した。...(中略)...漢が興ると、秦の弊政のあとをうけて、諸侯が割拠し、人民は生業を失い、しかも大飢饉におそわれた。およそ米価は一石5千銭となり、人と人が食い合い、死ぬ者が半数を超え...」
後漢末期(AD184以降)、曹操が徐州を攻略した際難民数万人を生き埋めにした。江淮地方のその数万人以外の人々は「互いに食い合う」ありさまだったそうだ。(吉川三国志にはそこまで書いていなかったぞ)
隋の人口は5千万、戸数は9百万戸だった。隋滅亡期の内乱後、唐初は2百万戸で、隋代の2割程度だった。
このような激しい人口変動は、後の宋~明清代まで続く。激しい内戦も繰り返される。一番最近の内戦は「文化大革命」だろう。文革は破壊の程度が少ないほうだ。人口7~8億に対して犠牲者は2千万程度。10年間続いた全国的動乱における殺傷率3%未満は、歴史的に見ると低い。まだ破壊が足りないということを暗示していると思う。
敢えて冷酷な見解を述べる。大陸で今後動乱が起こったら、特に農民反乱が広範に起こったら、億単位の犠牲が出ることを想定しておくべきだと考える。(註1)(註2)
mattは「日本はシナ大陸に深く関与するべきでない。距離をおくべきだ」という意見の持ち主だ。その理由はなんといってもこの破壊のひどさにある。日本がこういう動乱に巻き込まれてほしくない。もう一度言うが、大地震の方がよほどましだ。
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註1: そもそも人口統計が正確かどうかという問題は当然ある。が、とにかく、激しい破壊が史上何度も繰り返して起こっている実績があることは事実だ。
註2: 中国のある顧客を仕事で訪問した際、顧客の工場長(を含む一群の人々)と会食した。工場長が雑談の中で「中国は農民が多すぎる。内乱で数億人死ぬべきだ」と言った。冷酷な意見だが、この見解はシナの歴史への洞察に富んだ意見だとmattは思う。(工場長ともなれば当然都市戸籍の持ち主だから、余計にこういう冷酷なことが言える)
5月25日の「胡と漢(12)」の⑤について。
524年、待遇が悪化していた北方国境線駐屯部隊が反乱(六鎮の乱)することにより、鮮卑拓跋一族の北魏政権が崩壊したことは前述した。
この後、北魏は東西に分かれ、それぞれが有力な軍人によって奪権されて、東側が北斉、西側が北周となったことも前述した。
577年北周が北斉を制圧し、隋にとって代わられたところで南朝の陳を制圧して、シナを統一(589年)したことも前述した。
実は、隋がシナを統一できたのは突厥のおかげだ。北周の内部要因だけではおそらくない。(註)
北周と北斉とでは、後者の方が人口も経済力も兵力も優勢だった。北斉の方が平野が広がっている国土だから生産力が上回るのは明らか。
劣勢を跳ね返すべく、北周は突厥に接近し軍事介入を要請した。突厥は援軍を華北に派遣した。北斉を突厥軍に一旦攻撃させ弱体化させたところで、北周が北斉を攻撃し滅ぼすことができた。その攻撃の間、北周は突厥に不介入を守らせることができた。突厥が北斉に味方する事態を回避できたわけだ。
北斉を倒して華北を(突厥の庇護の下)制圧した北周を受け継いだ隋は、583年以降突厥が内紛を起こしている間に南征し、シナを統一した。
もう少し続きがある。
617年に唐の建国者李淵が隋に対して反乱を起こして山西省で挙兵したとき、突厥の援軍が彼を支援していた。隋滅亡後弟の李世民が権力を奪取したが、彼は突厥を攻撃して破り、軍事的な優位を確保した上で臣従させている(630年)。自分が力を蓄えた後、かつての味方を攻めたわけだ。
このことから何を連想するか?
「国民党と共産党が争っているとき、マンチュリアにいた日本軍を共産党が挑発して長城以南にいた国民党軍を攻撃させ、国民党と日本軍を対立させ両者を疲弊させることにより、最終的に共産党が勝利を得た」
mattならこの説を連想する。(中国側の資料が全て出てこない限り、真相は明らかにならないだろう)
このblogを読んでくださっている方で、外務省関係者、防衛庁・自衛隊関係者、内閣調査室関係者、警察庁関係者、海上保安庁関係者がもしいらしたら、ぜひとも「胡と漢」の歴史についてじっくり考えていただきたいと心から思っている。
現代より漢籍に詳しい日本人が多かった戦前、旧陸軍はこういう観点で歴史を研究しなかったのだろうか? 旧陸軍にせよ満鉄調査部にせよ、研究していた、という情報をmattは全く入手していない。自分たちが中共に利用されているとは思いもよらなかったのだろうか? 外国の軍隊を自国領内に引き込むくらい何とも思わない人たちだと言うことも、歴史を調べればすぐ分かることなのだが、考えなかったのだろうか?
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註: モノの本を読むと、「北周政権の中核集団武川鎮軍閥の団結が抜群だった。それに比べて北斉政権は内紛に明け暮れてしまった」という感じで記述していることが多い。本当だろうか。上記のような即物的な説明の方が、あるいは以前書いたような「主導権を巧妙に把握しつつ、漢人を仲間として参入させる政治的制度を導入した」というsystematicな説明の方が、mattはよっぽど納得できるのだが。