5月25日の「胡と漢(12)」の⑤について。
524年、待遇が悪化していた北方国境線駐屯部隊が反乱(六鎮の乱)することにより、鮮卑拓跋一族の北魏政権が崩壊したことは前述した。
この後、北魏は東西に分かれ、それぞれが有力な軍人によって奪権されて、東側が北斉、西側が北周となったことも前述した。
577年北周が北斉を制圧し、隋にとって代わられたところで南朝の陳を制圧して、シナを統一(589年)したことも前述した。
実は、隋がシナを統一できたのは突厥のおかげだ。北周の内部要因だけではおそらくない。(註)
北周と北斉とでは、後者の方が人口も経済力も兵力も優勢だった。北斉の方が平野が広がっている国土だから生産力が上回るのは明らか。
劣勢を跳ね返すべく、北周は突厥に接近し軍事介入を要請した。突厥は援軍を華北に派遣した。北斉を突厥軍に一旦攻撃させ弱体化させたところで、北周が北斉を攻撃し滅ぼすことができた。その攻撃の間、北周は突厥に不介入を守らせることができた。突厥が北斉に味方する事態を回避できたわけだ。
北斉を倒して華北を(突厥の庇護の下)制圧した北周を受け継いだ隋は、583年以降突厥が内紛を起こしている間に南征し、シナを統一した。
もう少し続きがある。
617年に唐の建国者李淵が隋に対して反乱を起こして山西省で挙兵したとき、突厥の援軍が彼を支援していた。隋滅亡後弟の李世民が権力を奪取したが、彼は突厥を攻撃して破り、軍事的な優位を確保した上で臣従させている(630年)。自分が力を蓄えた後、かつての味方を攻めたわけだ。
このことから何を連想するか?
「国民党と共産党が争っているとき、マンチュリアにいた日本軍を共産党が挑発して長城以南にいた国民党軍を攻撃させ、国民党と日本軍を対立させ両者を疲弊させることにより、最終的に共産党が勝利を得た」
mattならこの説を連想する。(中国側の資料が全て出てこない限り、真相は明らかにならないだろう)
このblogを読んでくださっている方で、外務省関係者、防衛庁・自衛隊関係者、内閣調査室関係者、警察庁関係者、海上保安庁関係者がもしいらしたら、ぜひとも「胡と漢」の歴史についてじっくり考えていただきたいと心から思っている。
現代より漢籍に詳しい日本人が多かった戦前、旧陸軍はこういう観点で歴史を研究しなかったのだろうか? 旧陸軍にせよ満鉄調査部にせよ、研究していた、という情報をmattは全く入手していない。自分たちが中共に利用されているとは思いもよらなかったのだろうか? 外国の軍隊を自国領内に引き込むくらい何とも思わない人たちだと言うことも、歴史を調べればすぐ分かることなのだが、考えなかったのだろうか?
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註: モノの本を読むと、「北周政権の中核集団武川鎮軍閥の団結が抜群だった。それに比べて北斉政権は内紛に明け暮れてしまった」という感じで記述していることが多い。本当だろうか。上記のような即物的な説明の方が、あるいは以前書いたような「主導権を巧妙に把握しつつ、漢人を仲間として参入させる政治的制度を導入した」というsystematicな説明の方が、mattはよっぽど納得できるのだが。