9世紀前半にユーラシア大陸に大寒波が来、モンゴル高原も寒波に襲われ、(牧畜)生産がめちゃくちゃになったのが、どうやら理由らしい。
この結果、ウイグル政権はいくつもの集団に分かれ、離散した。あるものは東トルキスタン(天山山脈付近)、あるものは現在の甘粛省付近へと移動した。
あるものは、かろうじて生き長らえていた唐に帰属した。降伏したウイグル集団の一部は現在の河南省へと移住させられた。
唐に帰属した遊牧集団に沙陀(サダ)と呼ばれる集団がいた。現在の山西省近辺で暮らしていた。
一方、唐王朝は色々な問題を抱えていた。
7月27日の「胡と漢(26)」で書いたように、塩が専売制とされていたが、これにより塩の密売を生業とする秘密結社 - 塩賊 - が反乱をおこすようになっていた。
唐王朝は茶にも課税したので、茶賊が長江流域で横行し、この反乱にもなやまされた。
こうして、唐王朝と藩鎮が統治するシナの大地に盗賊・匪賊が跋扈するようになった。これが大きな反乱になったが、唐王朝は遊牧集団沙陀族の援軍を使ってこれを平定した。(註1)
その後も残党は華北の東部に散在していたが、9世紀後半になると大旱魃・蝗害(註2)が続発し、食に窮した貧民が匪賊と合流、さらには塩賊などと合わさり巨大な反乱となった。この「黄巣の乱」に、上述の河南省に移住させられたウイグル集団が合流し、強力な戦力となった。
黄巣の匪賊集団はシナ各地を華北から華南まで転戦し、その後洛陽・長安を陥落させた。唐王朝は再び四川省へと落ち延びた。各地の藩鎮は3割程度黄巣側についた。
しかし、黄巣の軍勢は食料の欠乏に悩まされ(註3)、部下の朱全忠が寝返った。また、山西省にいた沙陀族が唐王朝の呼びかけに応じて黄巣軍を攻撃した。これにより、黄巣の軍勢は粉砕されてしまった。
「黄巣の乱」と呼ばれる内乱が終了し、唐王朝は四川省から長安へと復帰することができた。またもや、騎馬民の援軍による政権維持であった。
さて、黄巣の軍勢から寝返った朱全忠は、乱終了後唐王朝に帰服したが、軍事力を背景に中央政界に介入して有力者となり、西暦907年に唐の皇帝から帝位を譲られる形式をとって「梁(後梁)」の皇帝となった。(註4)
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註1: 当時の沙陀族のリーダーはこの功績により節度使に任じられた。
註2: 「コウガイ」。いなごが大発生して農作物や木々の葉を食い尽くす現象。
註3: 天変地異による飢饉が継続しているなかでの長安占領だったのだと思う。
註4: これで唐王朝が滅び、鮮卑・匈奴系政権も終焉を迎えたことになる。「胡と漢」シリーズは政権の性質に着目しており、血統としてのシナ諸王朝の継続にはあまりこだわらないようにしている。「唐」とか、「梁」とか、国号を書いていたら、それはあくまで「わかりやすさ」のために書いているのだとご理解いただきたい。なお、こういう帝位の譲り方を「禅譲(ゼンジョウ)」という。