ユーロ圏で信用供与が増大。単純に考えると、他通貨に対してEUR供給量が相対的に膨れ上がる傾向を示唆しているのだろうが。
さて...?
もう少し趣味に走らせてもらおう。
西夏の遺民は今日でも中国に存続している、という説がある。
四川省西部の山奥に「木雅族」と漢字で表記される少数民族がいる。「木雅」を北京語で発音すると「ムーヤー」となる。
実を言うと、タングト族は自らを「タングト」とは呼んでいなかったらしい。「ミ・ニャク」と自称していた。これは西夏文字の解読によってほぼ判明している。
で、「ムーヤー」は「ミ・ニャク」だというわけだ。
本当なのかどうかはよくわからない。しかし可能性がゼロかというと、そうでもない。
西夏王国にはいろいろな種族が混住していた。前述したようにチベット系っぽい「羌」もたくさんいた。そして「木雅」族は、チベット語に比較的近い言葉をしゃべっているらしい。
前回述べたように、西夏王国はモンゴルによって政権としては滅亡させられた。が、その遺民は別に滅ぼされたわけではなくその後も生き続け、一部はモンゴル政権の内部に入り込んでいる。
またモンゴル時代には、騎馬民・牧畜民が色々な場所に移住させられている。現在でも雲南省にモンゴル族が少数民族として住んでいる。元代に雲南に北から移住した人々の末裔だ。
もっと言うと、雲南省で契丹文字が発見されている。つまり、契丹人がここまで移住してきた可能性があるわけだ。契丹人の一部はモンゴル政権に参加しているから、こういうことがあっても別に不思議ではない。
こう考えてくると、「木雅族」が「西夏の民ミ・ニャクの末裔」だという可能性も否定できなくなる。
残念ながらこれ以上の考証は、まだ進んでいない。
たまには寄り道して趣味に走らせてもらおう。(註1)
「キタン政権」が東アジアの覇権を確立する中、「胡と漢」の接点において地方政権も登場した。「西夏」だ。
日本では井上靖の小説「敦煌」(註2)で有名なこの政権は、「タングト」と呼ばれる牧畜民の集団(註3)が中核になりつつ、ウイグル遺民や漢人などを参加させつつ成立した。
現代で言う、
・甘粛省のほぼ全域、
・寧夏回族自治区の全域
・内蒙古自治区のうち、オルドス高原(註4)の大部分と西部の砂漠地帯(ゴビ砂漠)の南部
をほぼ勢力下におさめている。首都「興慶」は、現代の寧夏回族自治区の首都「銀川」で、この街の郊外には西夏君主の陵墓が残っている。
タングトの出自はよく分かっていない。「西夏文字」という表意文字体系を開発している。この文字の解読が進むうちに、同じ文字体系が2種類の系統の言語を表記しているらしいことが分かっている。
例えば、日本語の語順は、「主語+修飾語(目的語)+述語」だ。「S+O+V」と表せる。
英語の語順は一般的には、「主語+動詞+目的語」だ。「S+V+O」と表せる。
漢語の語順は一般的には、「主語+述語+修飾語」だ。「S+V+O」と表せる。
モンゴル語の語順は日本語と同じで、「主語+修飾語+述語」だ。「S+O+V」だ。
ちなみに、トルキスタン地域の遊牧民の諸言語や朝鮮語も同じ「S+O+V」文型を持っている。だから、日本民族や朝鮮民族の出自が中央アジア~マンチュリアあたりの騎馬民と関係があるのではないか、という説はもちろんある。(註5)
さて、西夏文字で書かれた文章を分析すると、「S+V+O」文型と「S+O+V」文型が両方見出せることが分かっている。西夏政権がおかれた地理的な位置を考慮すると、
・ウイグル遺民や遠く昔の鮮卑系の遊牧民
・チベット人やチベット系とされる「羌」
・漢人
などの人々が混住しており、それらの言語を包括して文字化できるようにしたのではないか、と勘ぐることもできる。ちなみにチベット語と漢語は、同じ語族「シナ・チベット語族」を形成しているとされている。(註6)
まあ、このあたりのことは、今のところはっきりしたことは言えない。もっとも、游さんが「胡と漢(30)」につけてくれたコメントからたどったHPを見ると「西夏文字の解読を西田教授が成し遂げた」そうなので、近々画期的な研究成果の発表があるのかもしれない。
西夏は11世紀から12世紀にかけてキタン政権の覇権の下宋王朝をたびたび軍事的に圧迫した(註6)。宋王朝は西北部に軍隊を貼り付けたため、キタン政権の覇権下に入っても軍備を維持せざるを得なかった。ただ、西夏はキタン政権と違って、宋の中枢部まで攻め込む実績はついに挙げなかった。
西夏は13世紀前半にチンギス・ハン(ジンギス・カン)率いるモンゴル軍に攻め滅ぼされた。その後も、タングト族はモンゴル政権下で生き延びた。西夏文字はモンゴル政権下でも華北で使われ続けた証拠がある。また、ごく一部の地域ではかろうじて明代初期まで使われたらしい。(註8)
- - - - - - - - - - - - - - - - -
註1: 今回の話は「胡と漢」シリーズ全体の流れの中では重要性はあまり無い。面白い事例ではあるのだが。mattは西夏関連の書籍を3冊持っているが、日本語で書かれた西夏関連書籍は見つけた限りこの3冊(註9)で全てだと思う。残念ながら読めないが、西夏文字で書かれた古文書の実物を見たこともある。要するに個人の趣味だ。(^^;)
註2: 1988年に映画化された。当時 matt は西夏に興味は無かったが、たまたま見た。
註3: 「タングート」と書く場合もあるが、ここでは「タングト」で通す。漢字では「党項」と書く。どういう出自の人々か正確なところはよくわかっていない。一説には遠い昔の「鮮卑」の流れであるという説がある。上述のように、言語的な分析からはその可能性は一応否定できない。
註4: オルドス高原は、清代1700年代までは確実に、鳥が空を舞い、ウサギが跳ねて遊牧民の天幕に入り込んでくるような豊かな草原だったらしい。現代のオルドス高原は砂漠化が進み、牧畜が難しくなっている。
註5: 岩波新書の赤本に「元朝秘史」(小倉重男著)という本がある。「元朝秘史」がモンゴル語で一部つづられていて、傍らに日本語直訳がついており、モンゴル語を解しなくても語順が極めて日本語に似ていることが容易に分かる。名詞を修飾する形容詞が名詞の後ろに来る点くらいしか違いがない。
註6: タイ語やビルマ語も「シナ・チベット語族」に分類されている。
註7: ということは、契丹は西夏が宋を攻めることは黙認していたということだ。覇権国家は自分に都合よく行動できる一例と言えるだろう。
註8: いずれ「モンゴルvs明」の話をするときに書くつもりだが、明代の少なくとも初期には華北の特に北部には相当数の遊牧民・騎馬民が暮らしていたふしがある。モンゴル時代からそうだったのだろうと推定される。
註9: 全て西田龍男京都大学教授の著作。2冊は専門書で、1冊は(歴史好きな)一般人向けに西夏文字について解説している書。マニアックな本ばかりだ。
プロパンガスさん<http://ameblo.jp/propanegas/entry-10003491153.html
>が書かれているように、ブログテーマ「政治・経済」では命題の設定があまりよくなくなってきた。
個人的な意見だが、サイバーエージェントのアメブロ運営スタッフも困っているように見える。
「政治・経済」のテーマ設定にあれこれ頭を使える人たちだったら、現時点ではオンライン広告代理店業界に入ろうとはあまり思わないと思う。はっきり言っておくが、この発言、mattは別に失礼な発言だとは思っていない。
「政治・経済」についてあれこれ考えることに関心がある人が、(社会的に見て)現段階のオンライン広告代理店業に関心を持つか? あまり持たないと思う。また、オンライン広告代理店の側も、採用時にそういう資質はあまり問わないと思う。
察するに、スタッフの方々は、もっと日常的なネタに関心があるのだと思う。広告は商品を宣伝するわけだから、トップダウンアプローチ的に政治・経済を考える頭は役に立たないことが多いだろう。一方で、「このチョコレートそんなにおいしいのかね? ああ、ほんとにおいしいな。でも、どうしたら、人の目に『おいしい!』って見せられるだろうか?」といった、日常生活に密着した感覚は大いに要求されると思う。
同じ広告代理店でも、電通みたいに巨大な存在になれば別だ。サイバーエージェントだって、どんどん成長して巨大なメディア産業になれれば、政治・経済についてあれこれ考える人材を将来は藤田社長も採用したくなるかもしれない。が、現時点では、それどころではないだろうと思う。
核兵器をなくすにはどうしたらいいか? mattには、今のところブラックユーモアしか思いつかない。
「すべての核兵器保有国が互いに全面核戦争を起こし、手持ちの核兵器を全部使い切ればいい」
もちろん、地球上の生物はヒトも含め死に絶える。しかし、「核兵器がなくなる」には違いあるまい。
サイバーエージェントはトラックバックステーションの命題を公募している。matt は何かがほしくて blogger やっているわけではないので特に協力する気はない。為替相場とFT記事ネタとSinologyについて淡々と書くだけだ。
ただ、藤田社長とアメブロ運営スタッフの方々には一言申し上げておく。「政治・経済」命題の質を上げたかったら、歴史を学んだ人をスタッフに含めるべきだと思う。そういう人のノリは、現有スタッフのノリとはおそらく相当違うだろうし、「政治・経済」は登録者が少ないから、この改革はサイバーエージェントにとって優先順位が低いだろうが。
そうそう、もうひとつ言っておく。国際政治に関わる話題を持ち出すなら、軍事に関する知識は大いに必要だ。日本人は一般的に言ってこの分野の知識が欠如しており、そもそも「軍事について考え抜かないと、平和をどうやったら得られるか、考えられるはずがない」という認識が抜けてしまっている。
「自分がこれだけ純粋な真心・善意を持っているのだから、必ず外国の人たちにも通じるはずだ」と無邪気に思っている人が多いと思う。残念ながら、日本の外に行くと、われわれ日本人どうしで通じる類の誠意がまったく効果を発揮しなかったり、あるいはお人よしな態度を日本人がとっていることにつけ込こんできて、こちらが一方的に不利な立場に立たされたりすることが頻繁に起こる。
純粋に個人対個人レベルの親善ならそうでもないが、利害がぶつかる世界 - 「国家対国家」或いは「企業対企業」、場合によっては「国家対企業」 - では露骨な利益誘導を相手の「お人よしさ加減」を利用してつけ込んでくることは頻繁に起こっている。こういうことに簡単に屈すると後世に害を残す。
今回の「今週のお題」のような、国際政治について、軍事について考え抜いてもそう簡単に解答が得られない命題を掲げるのは、8月6日・9日・15日近辺だとしても、勘弁してほしいものだ。
「五代・宋政権」の本拠地深くまで「キタン政権」が攻め込んだ最初は、西暦947年だった。「キタン政権」の軍事覇権からの独立を宣言した後晋の首都開封(現河南省)まで契丹軍が攻め込んだ。(註1※)
軍事的には契丹の圧勝だった。しかし契丹軍は道中略奪を大いに働いたらしく、華北民衆の反発が強くなったため、契丹は北へ引き上げた。
13年後、「五代」諸政権の後継「宋」(北宋)が興った。しばらくは南北の対立が続いたが、1004年に契丹が宋に攻め込んだ。軍事的には相変わらず「キタン政権」が優勢で、このときもキタン政権側の優勢を確認する講和が結ばれ、歳幣として銀・絹を「宋」側が毎年献上することで決着した。
この講和はその後1世紀以上続いた。キタン側は歳幣で大いに購買力を得た。宋側はキタン側の覇権を認めることで安全保障を確保することができた。
この時期11世紀、「キタン政権」は大いに繁栄した。上記のように経済力を手に入れた。(現代の北京を含む)5箇所の首都を建設し(註2※)、都市への経済力の集積も手にした。(シナ社会ほどではないが)ある程度の官僚機構もできた。モンゴル高原も間接的に勢力下においた。
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
註1: この時代の開封は、現在の開封市街地の「真下」地下6m付近にある。1000年経過する間に6mも黄土が堆積したわけだ。
開封付近で黄河は天井川になっており、堤防が切れると華北東部全体のどこでも洪水に見舞われる危険がある。実際、数千年の歴史を通じて、黄河は何度もその流路を変えており、北の方天津付近に流れていた時期もあれば、南の方長江につながっていた時期もある。
註2: この時代の「北京」(遼の南京析津府)は、現代の北京市街の南西郊外にある。現代の北京市街中心部はモンゴルが支配した時代から始まっている。
(※ 投稿後に加筆した)
「士」という社会階層はシナ伝統社会に特徴的な社会階層で、「儒教的教養を持っていること」がその基準になっていることは前述した。突き詰めていうと生まれは関係ないから、「世襲貴族」とは異なる。
「士」が社会の中から目立ってくるのは、かなり古い時代からだ。春秋戦国時代にその萌芽が見られる。秦漢帝国以後は、もっとも重要な社会階層となった。
伝統シナ君主制の強化が進むとともに次第に儒教が国家の教条として定着させられてきた。それとともに「士」も制度化されていき、「科挙」試験によって皇帝が選抜するようになっていった。
彼らは皇帝のためにどこへでも赴任した。
儒教イデオロギーに従って、
皇帝
↓
官僚機構(士の集団)
↓
庶民
の hierarchy をシナ中の土地で確立した。
広い中原の地をどこへでも赴任し、各赴任地で実質的に立法・行政・司法を任されていた。権力行使の際必ず儒教イデオロギーを参照し、それに沿うように統治を行った。
FT.com 購読者用記事 <http://news.ft.com/cms/s/3e794e14-07a8-11da-a742-00000e2511c8.html
>
Berkshire Hathaway は外貨買い(ドル売り)ポジションを持ち続けているようだが、今年の上半期は損失を計上。"Forward contracts" とあるから先渡予約のポジションを持っているのだろうが、そうだとすると期限が設定されているだろうから、株式の現物と違って期限が来ると損益を実現させなければならない。
株価指数先物の売買してみたことがあるが、期限付きなのは実にやりにくいと実感した。制限時間無しで現物ポジションを持って決済のタイミングを自由にコントロールできるのが、一番やりやすい。
粘ろう。
しばらくの間、10~13世紀半ばの東アジア北部(華北・マンチュリア・モンゴル高原)について主に書く。
前回・前々回述べたように、華北では「五代・宋政権」=「匪賊あがりの集団に旧ウイグル系・沙陀系の遊牧騎馬集団が参加した集団」が政権をとった。「五代」と呼ばれる諸政権の王朝の血統はころころ入れ替わっているが、政権中枢を担う人材は似たような集団から出ている。つまり、農耕民+騎馬民混合部隊だったわけだ。
一方、マンチュリア・モンゴル高原東部から起こった「キタン政権」(註1)は遊牧民集団「契丹」を中核とする勢力だった。
東アジアのこの2大勢力は、明確な激突を避けて両立していたが、途中から北の騎馬部隊「キタン政権」の側が優勢になった。
「五代」諸王朝の政権内部で内部抗争が起こり、ある勢力が「キタン政権」の援軍を得て華北の覇権を握った。その見返りに、「キタン政権」に華北の北端(現在の山西省北部と河北省の北半分)を割譲し(註2)、「五代」諸政権に対する「キタン政権」の優勢を確認した。
「キタン政権」はウイグルにならって、マンチュリアの本拠地に首都を築きつつ、農耕地帯にも「南の首都」を設置した。この地には周囲の様々な種族が交易等のために集まるようになり、唐代半ばから始まっていたこの地の繁栄は次第に高まりを見せるようになっていく。同じく「キタン政権」に分類した女真の金、モンゴルの元、明、清、そして現代の中共政権に至るまで、この地 - 北京はこれ以後一千年間のほとんどの期間首都であり続ける。
「キタン政権」はもう一つウイグルに習うところがあった(註3)。独自の文字の使用だ。
ウイグル政権が9世紀半ばに分裂した後、その勢力の片割れが中央アジア各地に分散したが、その頃からテュルク系諸族が自らの言葉を文字で表すようになった。この文字はもともと古代フェニキアで発明されたアラム文字(アルファベット)だったのだが、その後東西に伝わった。西ではヨーロッパ諸言語のアルファベットに変化したが、東ではアラビア文字やソグド文字などに変化した。そして旧ウイグル集団がそれを取り入れた。
この「ウイグル式」書写法は、その後モンゴル人や満洲人も取り入れ、長く中央アジア・モンゴル高原で使われ続けた。モンゴル語では現代でも使われている。
契丹人たちは「ウイグル式」書写法をそのまま取り入れるのではなく、独自の文字体系を発明した。「契丹文字」と呼ばれる文字だ(註4)。
遠く五胡の時代から発展し、突厥~ウイグル~契丹と経て、騎馬民たちは「都市の生産力・経済力」と、自らの言語を記録することによってより明確化された「自分たちの集団意識」を手に入れることになった。
- - - - - - - - -
註1: 「キタン」と呼ぶか「キタイ」と呼ぶか、異説がある。ここでは matt 自身がなじんでいる「キタン」でいく。なお、Cathay Pacific の "cathay" は「シナ」を意味しているが、この契丹が語源である。
註2: 「燕雲十六州」と呼ばれる地域。その後宋代に入っても結局シナ側はこの地をキタン政権から奪い返せなかった。
註3: ウイグルに習ってそうしたのかどうか、文献には明確に書いてはいない。matt 個人の見解と解されたし。
註4: 契丹文字は解読が完全にはなされていない。ハングル文字の出発点は契丹文字だという説がある。
塩賊反乱勢力あがりの朱全忠が樹立しそれに続いた華北を支配した政権はシナ史上「五代」と呼ばれている。
「胡と漢」流に見ると、この「五代」とその次代「北宋」政権は、一くくりにして考えることができる。それはあたかも、「北魏~北周・北斉~隋~唐」政権がすべて「鮮卑(タヴガチュ)」系政権として一くくりにして考えることができるのと良く似ている。
この系統の政権は出発点においては前回述べたように「農耕社会出身匪賊勢力+旧ウイグル系騎馬戦力」だった。それに「山西省沙陀族系騎馬戦力」が途中で加わり、そのまま「北宋」代になだれこんだ。ここでは「五代・宋政権」と呼ぶことにしよう。
「五代・宋政権」と同時代に、現代のマンチュリア+モンゴル高原東南部+河北省・山西省北部を制圧した遊牧騎馬民系政権が登場した。「契丹」と呼ばれる 勢力だ。後にマンチュリア出身の女真族に乗っ取られる。ここでは敢えて「キタン政権」と呼ぶことにしよう。
10世紀初頭の唐滅亡から13世紀半ば(女真が建国した)金の滅亡までの3世紀半は、北の「キタン政権」と南の「五代・宋政権」との「国際関係」が東アジア情勢の主な様相となった(註)。
- - - - - - - - - - -
註: そしてその後に、すべてを呑み込む「モンゴル」が登場する。