本日の投稿「書評」で、記者クラブ - 民間企業の私的な団体 - が税金で養われている件について少し書いた。

新聞もTVも含め日本の大手メディアは「記者クラブという名のカルテルが優先的に官庁から便宜供与される状態」にすっかり慣れきってしまっていて、既得権益保有者になっている。大手メディアの側からこのことを問題提起することはまずあり得ない。

大手メディアの力は強大だから、例えばアメーバブログの「トラックバックステーション」のトピックになることもまずないと思う。一民間企業サイバーエージェントにとって、取り上げるにはリスクが大き過ぎる。

こういう問題提起は、我々 bloggers が自発的に取り組むべきだと思う。とはいえ、bloggers の大半はmattも含めて「ただの人」だから、情報収集に限界があることが多い。

連携すべき対象は、「フリージャーナリスト」と呼ばれる人の中から出てくるのではないかと思う。あるいは、bloggers の中からジャーナリストを目指す人が出てくるか、だろう。

そうそう、一言述べておこう。

今年の前半は、ライブドアがニッポン放送を買収しようとした件で持ちきりだったが、もし買収してくれていたら、「記者クラブの壁をぶち壊す」よいチャンスとなった可能性がある。matt個人としては堀江社長シンパでもなんでもないが、買収できなかったことをとても惜しんでいるし、ニュースを面白くできるチャンスを棒に振ったという意味で、堀江社長の決断には物足りなさを感じている。

「記者クラブの壁を壊す」とは、こういうことだ。

① ニッポン放送は記者クラブに出入りすることのできる既得権益保持者である。

② だから、ライブドアがニッポン放送を買収することは、「記者クラブに出入りする権利を購入すること」でもある。

③ いったん記者クラブへ入れてしまえば、取材の対象が大幅に広がる。たとえば、どこかの省庁の記者クラブ向けインタビューをいきなりデジカメで撮影し、無線でポータルサイトに配信してしまう」などといったことも不可能ではない。

④ そうやってネット上に今まで人の目に触れなかった中央省庁や地方自治体の生情報を配信すれば、それら官僚機構の行動も大きく変わり得る。

こういう取材が無条件に良いとまではmattは思っていないが、既得権益擁護を優先している日本のメディア業界のカルテルを打ち破る一つの方法論であるとは思う。

(これはどこかの個人が運営しているHPに掲載されていた意見の請け売りです。mattが自発的に考え出したアイデアではありません)

"Book Baton" なるものが流行っているようで、プロパンガスさんからご指名いただいた<http://ameblo.jp/propanegas/entry-10003132129.html#cbox >。

持っている本は数百冊あると思われるが数えるのが面倒だし、一番最近買った本/読みかけの本は"Mao: The Unknown Story"ですでに書いているし、BBを他の誰かに渡すつもりもないので、ここでは私的な書評ということにしておこうと思う。

「この本は重要だ」或は「これは面白い」と思っている本5冊。最後の1冊だけ相場本だが、相場ブログだから、まあいいだろう。

①「日本的革命の哲学」
著者: 山本七平
出版社: PHP研究所

②「海の都の物語」
著者: 塩野七生
出版社: 中央公論社

③「続 海の都の物語」
著者: 塩野七生
出版社: 中央公論社

④「新聞が面白くない理由」
著者: 岩瀬達哉
出版社: 講談社

⑤「億万長者を目指すバフェットの銘柄選択術」
原題: The Buffettology Workbook
著者: Mary Buffett & David Clark
出版社: 日本経済新聞社

①はmatt自身の蔵書ではなく父親の蔵書だが、北条泰時と御成敗式目について論じているこの書はすばらしいと思っている。ブログ上で「Sinology」と題して色々書いているが、追求していることは実は「Japanology」でもある。そして、「日本人とは何者か」を考えている人には、この本はお薦めだ。

井沢元彦の「逆説の日本史」シリーズや、関岡英之の「拒否できない日本」など、「日本や日本人がどういう性質・傾向を持っているか」を深く考えている著作には、ぽろりぽろりとこの本の影響が見られる。

②と③の著者塩野七生は、mattがここ20年以上ファンであり続けている作家だ。彼女の著作はどれもすばらしいが、その中で日本人として読むべき第一は、Veniceについて書いたこの2冊だと思う。

④については、以前このブログ上で多少書いた。日本の大手メディアが官庁にシステマティックに取り込まれている様子をよく描いている。mattは別にマスコミ情報が無価値だと言うつもりはない。ただ、「官製情報を右から左へ垂れ流しているだけのメディアがふんぞり返っている」状況を頭に入れた上で大手メディアの情報を解釈するべきだ、とは思っている。また、民間企業の私的な団体たる記者クラブの運営に税金が投入されている実態は、問題視されてしかるべきだとも思っている。

それから、岩瀬氏のすごいところは、日本全国の自治体(市町村レベルまで)に付随している記者クラブの一覧表を巻末に掲載していることだ。こういう網羅的なデータは重要だと思うのだが、作るのが面倒なので、社会科学的な本の著者で書く人は案外いない。そういう意味でも貴重な著作だと思う。(今は自治体の統合がすすんでいるので、一覧表を再度つくりなおさなければならないかもしれない)

このブログでは株式投資については扱っていないが、mattは株式市場でバリュー投資を実践している。バリュー投資を始めるきっかけになったのが、この⑤だ。

(投稿後の8月2日に訂正)

関沢英之 → 関岡英之

安史の乱によって唐王朝が弱体化し、またウイグルの援軍に唐王朝が依存したため、東アジアの覇権は一気にウイグルの手に移った。

唐王朝はウイグルの庇護を受け、その軍事力を背景に地方で割拠した藩鎮をなんとか表面上従わせることができた。

庇護を受ける代償として定期的に貢物(註1)を提供した。また、ウイグルはトルキスタン出身のソグド人隊商にシナで馬を売らせ、見返りに絹を購入させた。これによりウイグルの経済力は大きく成長した。

ただでさえ直接統治する領域が狭まった上に貢物をしなければならなくなったため、唐は増税した。特に重要なのは、塩を専売制としたことだ(註2)。これにより政府の許可を得ない塩の販売が違法になってしまった。後に内乱の原因となる。

ウイグル遊牧政権は8世紀前半に東突厥に取って代わり、モンゴル高原からジュンガル盆地(註3)まで掌握し、シナ~モンゴル高原~東トルキスタン地域の覇権国家となった。

ウイグル政権は騎馬民・遊牧民系の政権として画期的だった。後世にまで重要な影響を及ぼしている。

(1)首都の建設

モンゴル高原のほぼ中央部に首都を建設した。

首都は壁で囲まれていた。壁の中には、中央アジア乾燥地帯/半乾燥地帯一帯から集まってきた人々 - 商工業に従事する人々 - が定住した。ウイグル政権の中核 - 遊牧民たちは壁の内側には住まず、壁の外で天幕を張った。

こういう形式の首都を運営した遊牧騎馬民政権はウイグルが最初だ。これは後世のモンゴル政権 - 元 - の冬の首都「大都」(註4)と夏の首都「上都」(註5)のプロトタイプとなっている。

(2)シナ農耕地帯の富のシステマティックな収奪

上記のように、定期的な貢物(歳幣)をシナ農耕地帯の政権に行わせるようになったのは、特にそれを銀という「貨幣」で行わせたのは、ウイグルが最初だ。この方針は契丹にも受け継がれている。蒙古に至ってはより直接的にシナを統治してよりシステマティックに農耕地帯の富を吸い上げるようになっていく。

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註1: 歳幣(さいへい)。主に銀だったらしい。

註2: 専売制それ自体は増税そのものではないが、実質的な増税に利用できる。

註3: 現在の新疆ウイグル自治区の北部、天山山脈より北側。

註4: 大都は現在の北京市街の原型となっている。

註5: もし大型の世界地図帳(価格が2~3万円くらいするもの)をお持ちなら、内蒙古自治区の南東部、北京市の真上(真北)をごらん頂くと、「多倫(Duolun)」という小都市が載っていると思う。その左側(西方)に元の上都(開平府)があったらしい。(※ この部分は、8月6日に書き直した)

西暦755年、現在の北京近辺に本拠地を置いていた節度使(註1)の安禄山が唐王朝に対する反乱軍を起こし、首都長安・洛陽を占領し、皇帝を称した(註2)。

安禄山は現在の遼寧省朝陽付近の出身だ。以前書いたが、父親はソグド人、母親は突厥人の混血だ。反乱当時、現在の河北省・山西省・遼寧省にまたがる広大な領域の統治を任されていた、唐朝治下最有力者の一人だった。

中央政府に反乱を起こした理由は、通説では、玄宗皇帝の宰相楊国忠との対立のためだとされている(註3)。

この反乱軍は、河南・陝西あたりでかなりの略奪を働いたこともあり、長安・洛陽近辺ではあまり一般庶民の支持は無かった。そこへ、北へ逃げていた粛宗がモンゴル高原の遊牧民政権ウイグルの援軍を得て攻勢をかけてきた。

安禄山は長男安慶緒に殺され(註4)た後だった。守る安慶緒は唐・ウイグル連合軍を迎え撃ったが敗れ、根拠地の北京周辺へ撤退した。

安慶緒は史思明(註5)なる人物に殺され、史思明が皇帝を称した。史思明は洛陽を攻撃・占領した後(理由はわからないが)息子の史朝義に殺されている。そして唐が招き入れたウイグル騎馬部隊に、763年史朝義は攻め滅ぼされた。

「安史の乱」と呼ばれる内乱が終わった。

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註1: 「胡と漢」シリーズで以前「府兵制」という徴兵制度について述べた。5月22日投稿の「胡と漢(10)」で述べたが、おそらくは「則天武后の改革」のためにこの制度は8世紀初期に機能しなくなり、中央政府が辺境の防衛を直接実施する制度が形骸化してしまった(註6)。そこで、一部の有力者を「節度使」に任命し、辺境の広大な地域での防衛任務を負わせ、併せて行政・司法・立法権を与えた。節度使は強力な軍事力を有したため、中央政府が次第に統制できなくなっていった。節度使が統治する行政単位を「藩鎮」と呼ぶ。

註2: 唐の皇室は長安を脱出し、一部(玄宗)は南方の四川省へ、他の一部(粛宗)は北方、現在の寧夏回族自治区近辺へと逃れた。安禄山は「大燕」皇帝を称した。「燕」は現在の河北省北部・北京・天津あたりの土地を言う。

註3: mattにとってしっくりくる「反乱を起こした本当の理由」は今のところ見当たらない。一つ可能性があると思っているのは、744年の東突厥滅亡が何らかのきっかけになっているのではないか、ということだ。

744年、モンゴル高原を支配していた東突厥がウイグルに倒された。東突厥の遺民(遊牧民)は、一部はウイグルに吸収されたであろうが、一部はシナ北部に逃げ込んできている可能性がある。母方が突厥系の安禄山を頼った者がいても不思議ではない。

安禄山が挙兵したとき8千名の兵士を擁していたが、その大半はテュルク系と契丹系の騎馬部隊だった。国を喪った突厥遺民が多数混じっていた可能性が高い。反乱を起こしたのは突厥遺民から何らか突き上げられたからかもしれない。

こういう観測をするのには理由がある。上の本文で書いたように、安史の乱で追い詰められた唐王朝にウイグルが援軍を出していることだ。反乱軍に参加していた旧突厥遺民が勢力を拡大するのは都合が悪いとウイグルが判断したと考えても矛盾は無いと思う。

註4: 長安占領後、安禄山は病気で失明した。失明後なぜか跡継ぎを庶出の男子にしようとし、これを恨んだ長男に殺されたことになっている。

註5: 安禄山が反乱を起こした当初からの重要な協力者・部下だったらしい。史思明もソグド人男性とテュルク系(突厥所属の者だったかどうかは不明)女性の間に生まれた者である。

註6: 府兵制が「鮮卑・匈奴系の人間が政権の中核を担いつつ、農耕社会の有力者を軍人として政権に参画させる」機能を持っていることを以前「胡と漢(10)」で述べた。これは、「鮮卑・匈奴系の者が政権を担い、騎馬部隊を軍事力の中核として保持しつつ、農耕社会の有力者も政権への協力者とする」ということなわけだが、則天武后がこの人事制度を破壊してしまったらしい。

彼女は政権をとると、鮮卑・匈奴系の軍人上がりの人材を遠ざけ(或は粛清し)、農耕社会出身者(漢人)の官僚を抜擢した。府兵制が機能不全に陥ったのは、この過程でのことらしい。

「玄宗皇帝が酒色にふけったために唐王朝は徳を喪い、安史の乱を招いた」などという説明には、mattは満足しない。安史の乱の原因は、1) 中央政府の軍制崩壊、2) 地方政府の勢力強大化、3) 旧突厥遺民の策謀(?)、の3つであると(勝手に)今のところ考えている。

木曜日の「主要通貨バスケットへの連動開始」後最初の週末。

「今週末の市況」を今のところ2通貨ペアだけ書いているが、USD/CNY 或は CNY/JPY も考える必要が出てくるだろうか?

当分、このままで行こう。


今週の売買: none
今週末のポジション: EUR/USD 平均@1.2509 売り
今週末の市況: EUR/USD @1.2055前後 | USD/JPY @111.30前後

FTも、とりあえず怒涛のお祭りモード。購読者でなくても読める記事がたくさんあります。

特集: Renminbi revaluation
<http://news.ft.com/world/renminbi >

昨晩の中国人民銀行(PBOC)声明文
<http://news.ft.com/cms/s/0c3fa158-f9db-11d9-b092-00000e2511c8,dwp_uuid=2aaa1c16-afc8-11d9-ab98-00000e2511c8.html >

仮に10%調整してもらおうと思ったら、最低7週間必要ってわけだね。対JPYだともっとかかるかな? PBOCが調整幅を統制できるとしての話ではあるけれども。

さぁて、とうとう来た。USD/JPY はさっそく荒れ模様。
mattとしては、トレンドがはっきりするのを待ちたいと思います。

遊牧民たちは乾燥した気候に適応している。気温が高かろうが低かろうが、乾燥した気候ならかなり順応できる(註1)。一方、日本やシナの夏場のように、高温多湿な気候には弱い。彼ら自身のみならず、馬も高温多湿な気候には弱い。

シナに遊牧民たちが入り込み、そこに政権を樹立するとき、この気候的条件 - 高温多湿な夏 - は大きく影響している。農耕地帯深く入り込み、夏場高温多湿になる地域に根拠地を構えるのは、モンゴル高原・マンチュリア・トルキスタン出身の遊牧民/騎馬民にとって大きな負担となる。

そこで彼らは「農耕地帯の周縁近く、自分たちの出身地に比較的近くて出身地の仲間と連絡をとりやすく、気候もそれなりに自分たちの出身地に近い土地」を選び、その土地を「農耕地帯を支配するための根拠地」にする傾向がある。北京も西安も、そしてデリーも、「遊牧民(牧畜民)が農耕地帯を支配するための根拠地」として発展した都市だ。(註2)

シナの古代、紀元前1000年から紀元前770年、「周」と呼ばれた政権が現在の西安付近にあった。この周の君主一族は「羌」出身だとされている。「羌」出身ということは、チベット高原西部・現在の青海省・甘粛省などに居住する牧畜民(註3)と同類だったということだ。

始皇帝の「秦」も、その出自は「周」と同様「羌」の類だ。初期は現在の甘粛省天水市近辺に本拠地があったらしい。その後西安近辺に首都を建設した。(註4)

「胡と漢」シリーズで前述したように、鮮卑・匈奴系遊牧民出身者が中核となって樹立された隋唐政権はこれを踏襲し、西安(長安)を首都とした。

さて、唐代の7世紀から8世紀、現在の北京周辺が次第に発展し、中央アジア出身の遊牧民やマンチュリア出身の騎馬民、トルキスタンのオアシス諸都市出身のソグド人などがこの地に次第に集中するようになっていった。

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註1: ジンギス・カンの孫たちが、現在のウクライナ、イラン、シリア、アフガニスタンなどに遠征している。騎馬部隊の移動に際して特に問題が無かったところを見ると、大陸の西側の気候には比較的順応し易いと見える。高温多湿でさえなければかなり耐えられるということだ。

これに対してモンゴルの対シナ攻略戦では、夏場に疫病が流行し、軍を率いていたジンギス・カンの孫が病死している。

註2: 基本的にmatt個人の見解なので、お間違えのないよう。この見解の基礎となることを記述した書は存在する。が、ここにあるように歴史上の事象と地理、気象条件、軍事などをまとめて考え合わせた上で見解としている書はまだ見たことがない。

気候の影響を強調しているのは、大陸の西側では似た現象が見られないからだ。酷暑を避けるためにあれこれ遊牧民政権の側が努力した痕跡が見られない。これに対し大陸の東側では、元と清が夏の首都をわざわざ造営している。これについてはおいおい書いていく。

大陸の西側では、気温が高い時期に湿度が低く、気温が低い時期に湿度が高くなる傾向があるので、不快指数が大陸の東側と比べて上がりにくい。matt自身米国加州の内陸部に滞在したことがある。真夏に気温30℃くらいのとき、建物の中にいると実に気持ちいい。炎天下で40℃に達することもあるが、それでも真夏の東京や大阪での35℃より耐えられる。

註3: 確認していないが、騎馬の習慣はなかったかもしれない。

註4: 北京についてはこれから書いていくが、デリーについてはここで簡単に述べておくにとどめる。

インド亜大陸には遊牧民が史上何度も入り込み、政権を樹立している。例えば、5世紀に「エフタル」と呼ばれる遊牧民の集団がインド亜大陸北西部を支配している。また、カニシカ王で有名なクシャン王朝も中央アジア出身遊牧民系政権だ。

シナで契丹が覇権国家だった10世紀頃、インド北部には中央アジアからイスラム教徒の遊牧民が入り込み、デリーに根拠地を置く政権がいくつも入れ替わり立ち代り興亡した。歴史上「デリー・サルタナト(デリー・スルタン朝)」と呼ばれる諸政権だ。上記註1のモンゴル遠征隊の一部はインド亜大陸の北部に入り込んでいるが、デリー・サルタナトにはじき返されている。(騎馬部隊どうしの戦いだから侵入した側が有利とは言えなかった)

14世紀、中央アジア・トルキスタンの遊牧民は、かつてモンゴルから分派した小さな諸政権の下にいたが、そこからティムールという英雄が出、彼が現在のトルキスタン全域を席巻した。ティムールの五代後のバーブルという者がトルキスタンを追われた後、16世紀にインド亜大陸に入っていわゆるムガール帝国を樹立し、デリーに根拠地を置いた(正確には孫の代になって政権が安定したと言える)。

(なお、英語ではペルシャ語風に"Mogul"と標記することが多い名称「ムガール」は、「モンゴル」の訛った発音だ)

このように、インド亜大陸に中央アジアから入ってできた政権はデリーにその根拠地を置く傾向がある。地図をお持ちなら、アフガニスタン~パキスタン~インド北部をご覧いただきたい。

アフガニスタンの首都カブール

カイバル峠

パキスタン・ペシャワル

パキスタン・ラワルピンディ

パキスタン・ラホール

インド・アムリツァール(※)

インド・ルディアーナ(※)

インド・アンバル(※)

インド・パーニーパット(※)

インド首都デリー

と道が通っている。古代からの幹線道路だ。この道より南側のインダス川流域、現在のパキスタンの地は大半が砂漠。この山沿いの道は砂漠を迂回して中央アジアとインド農耕地帯を繋ぐ道だ。

中央アジアから南下してくる勢力がインドに入ろうとすると、ここしか通り道が無い。そこでここを南下する。南下するとその先にデリーが待っている。デリーからは交通路がたくさん分岐しており、インド各地と連絡をとることができる。

というわけで、中央アジアから出てきた遊牧民がインド農耕社会の支配者となりたければ、デリーはぜひとも押さえたい交通の要衝となる。インド亜大陸の中では、出身地の中央アジアとの連絡も比較的とりやすいという地の利もある。

気候的にも、インド亜大陸の北西部は遊牧民にとって比較的耐えやすい土地と言える(あくまで、インド亜大陸の中での話だが)。少なくとも冬場は気温がそれほど高くなく、かつ乾燥する。インド中部以南のように年中高温多湿というわけではない。

もっとも、デリー出身のインド人に聞いたところでは、夏場のデリーは45℃を超えることがあるそうだ。

(加筆)
※印の都市名は、投稿後の7月22日に加筆。

前回述べたように、ユーラシア大陸の東側~南側は、季節風のせいで「気温の高い時期は湿度も高く、気温の低い時期は湿度も低い」傾向がある。夏場は蒸し暑くて不愉快になるわけだ。シナもインドもインドシナもヤマトの島々もそうだ。

これを書いているmatt自身関東地方の夏の暑さにうんざりしているが、我々のように生まれたときからこの気候に慣れている人々と違って湿度の低い中央アジアで育った遊牧民にとって、この気候はどう感じられるだろうか?

残念ながら、mattには遊牧民の知人はいないが、歴史を調べればそれだけで十分わかる。

彼らも暑いと感じている。多分「死にそうになるほど暑い」はずだ。湿度の低い環境で過ごしてきたのだから。高温多湿な気候にさらされたら消耗度は我々より高い。

ブログテーマ「Sinology#3(一般)」に今は分類しているが、4月19日に「南船北馬」という投稿をものした。そこでも書いたが、遊牧民がシナに入り込んで政権を樹立しても、往々にして華北までしか制圧できない。華中・華南まで手を出せない。そこまで南下すると夏場極めて高温多湿な気候になる(註)から、人も馬も元気が出ない。場合によっては軍隊に疫病が流行したりする。

そういう歴史がある。

こういう気候条件のある土地シナで、遊牧民たちが入り込んで農耕社会にまでまたがって覇を唱えようとしたら、どうするのが良いだろうか?

彼らは歴史の中で解答を出している。

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註: 華中・華南は日本と同様(或いはそれ以上)に夏場は高温多湿で不快指数が高い。夏の華北はやはり暑いが、華中・華南ほど湿り気が多くない。

夏に北京を訪問したことがあるが、暑かった。それでも、夏の東京ほど不快ではなかった。

ユーラシア大陸の真ん中には「砂漠/草原地帯」が広がっている。東はマンチュリアから西はウクライナまで広がる広大な乾燥地帯だ。その周囲に、

① シナを中心とする北東アジア
② 東南アジア
③ インドを中心とする南アジア
④ イラン高原/アラビア半島などの西南アジア
⑤ ヨーロッパ
⑥ 北極近くのシベリア

がある。④を除いては湿潤地帯と言っていい。

ヨーロッパやアメリカ西海岸に滞在経験のある方の中には、気候が日本のそれとはかなり異なることに気づいた方もおられるかもしれない。もしそういうことに気づいていたら、その感覚は正しい。

大陸の東側: 夏場に雨が多く、冬場に乾燥する

大陸の西側: 夏場に乾燥し、大陸の東側と比べると冬場に雨が多い(ただし、大陸の西南部は、いつも乾燥し砂漠化している)

という傾向がある。

上記の①~⑥であてはめてみよう。

①・②は大陸の東側だ。日本もシナも全般的に夏場に雨が多く、冬場は乾く(註1)。東南アジアもインドシナ半島やフィリピンなどだと、北半球の夏場に雨が多く、冬場に乾く。赤道付近だとさすがにそういう傾向は不鮮明になり、年中いつも雨が多い地域となる。

これらの地域は、太平洋とシベリアから吹き付ける季節風(モンスーン)の影響を受けている。特に①はそうだ。熱帯の湿った気団の影響を受けるため、夏場は高温多湿で蒸し暑い。

③は大陸の南側と言うべき地域で、②と④の中間だ。しかし足して2で割るような気候ではない。インド洋から吹き付ける湿ったモンスーンの影響を北半球の夏場に強く受けている。④のパターンよりも①・②に近い季節の移り変わりパターンを示していると言える。ここも夏場は蒸し暑い(とゆーか、死ぬほど暑くて、本当に死者が出る)。

④は圧倒的に乾燥している地域だ。砂漠が広がっている。

⑤は、年間降水量はそれほど多くないのだが、緯度が高くて気温が低く、ために相対湿度が高い。だから比較的湿潤だが大陸の東側と違ってやたら蒸し暑くなることはない。

⑥は冷涼な地域。緯度が非常に高いので気温がとても低い。降水量はあまりないのだが、気温が低いから乾燥から免れていることでは⑤と似ている。(註2)

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註1: 日本列島の日本海側は例外的な存在だ。これは日本海に暖流(対馬海流)が流れているためだ。ここでは、気象のメカニズムの説明は割愛する。

註2: 気温が氷点下になると水が凍ってしまうので、「極端に湿度が低くなる」ことを付記しておく。