大好きだよ、だから。 | mattii☆絶好調超

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子育て、仕事・・・そしてアラシ♪+Aぇ♪
ちょっと智くんに偏りがちに嵐愛をつぶやいてましたが・・・今りちゃ(イマココ)

今年ももう、残り4日になってしまって。
今年はいろんなことがありすぎて
あまりにも環境も変わってしまって
享受するつもりだったものには触れられず
逆に思いがけない贈物ももらった。

怒涛の2020年を追いかけるには
私はちょっと歳をとったのかもしれない。
目まぐるしいSNSにも、
ここにきてものすごい勢いのテレビも
ファンクラブのためのコンテンツも
どれも手つかずまで行かないけど
満足に噛みしめてはいない。

あっちの最終回も、こっちの最終回も
楽しくて、大好きで、寂しかった。
もやもやもハッピーも、全部詰まってて
自分の気持ちとおんなじだな、と思った。



えーっと。
多分そんなに愉快な話にならないと思うので
そういうの嫌な方は回れ右で。
1/1を過ぎたら、吐き出さない気がしたし
その方がいいのかもしれないけど
なんか、やっぱり違う気がするので、書く。
なので、気持ちの違う方の意見は受け入れるつもりもない。
あくまで、『私自身の』アラシゴト。



何度か書いてると思うんですが
私の、「嵐」に対する熱は、割と年々冷めていました。
2020年、という区切りがあったからこそ、
この熱量で、あと2年、見届けよう、となったと思ってます。

好きは好き。
嫌いになったわけでは決してない。
けれど、年々・・・
私が求めるものとの乖離が大きくなっていった。

演出および演出家への文句ではないです。
私の求めるもの、好みとの乖離、という意味です。


不満や文句的なことを声高に叫んだ時代もあったのだけど
いわゆる翔ちゃんの言うところの、
「大きく手を振ってお別れしましょう」
と言われる一人に私はなっていたのだと思う。
でも当時は好きだし、
好きな嵐でいてほしかったから(欲望の塊)
こうであってほしい、を叫びたかったのだと思う。
それくらい、嵐が好きだった。


まず、私にとっての嵐は歌、踊り、コンサートが前提です。
テレビや演技仕事は二の次で、そこは流れてくるものを
基本的にただただ受け取っております。
なので、コンサートで思うこと、が
そのまま「好き」の基準になってる。

うーーん。
ドームツアーで言うとLOVEあたりか。
まず、コンサートの3時間、
ずっとは熱中できなくなった。
ふと、冷める瞬間ができた。
見てた当初は、暗転のせいかな、って思ってた。
LOVEはさ、完全な暗転で、
数秒真っ暗な「しーん」っていう、
そういうシーンが何度もあった記憶。
当時は冷める瞬間を
あの幸せな空間で感じてしまうことが
信じられなかった。

そういう瞬間は実は年々多くなり
DVDになったコンサートを見ても払拭されなかった。
一回見ただけで、
ソロ以外全く開かなくなったDVDもある。

ま、個人の好みの問題なのでね。
これ、好きだな。
これ、そうでもないな。
そういう意味での好みでもあるし。
1つのコンサートの中でも
ここは好きだけど、ここら辺はそうでもない、とか。
そりゃ、あるよね。
誰にでも。
例えばDVDで言ったら
DVDになってまで引きのアングル多用の
空間や背景や、機構が映ってるものを見たいか?
否、だった。
すごいのはわかるんだ。
進化もわかる。
でも、やっぱり私は汗水たらして
歌い、踊り、笑う嵐が見たかった。
ただ、それだけでよかった。

ファンライトからのフリフラ機能も。
ファンライトの時はうれしかったし、すごーい、って思った。
うちわだったから、会場の光もすごい量だったもん。
けれど年々、制御される時間が増え、
始まりの挨拶では自動でメンバーカラーになり
すごく、すごく、寂しかった。
そう、ただ寂しかった。

その頃から、
コンサートに行っても、
ただただ、「押し」を双眼鏡で眺めるようになった。
私にとって演出そのものが
どんどん二の次になっていった。
一番のきっかけは、
デジコンの筋電(だっけ?)だと思う。
見たときは全く何のことか分かんなかった。
次の日に入ったコンサートでは
潤くんがMCの時間に少し説明したと記憶してる。
あ、そういうことなの、と初めて知った。
初見では智がちっとも動かないな、
って思っただけだった。
そして、それって、意味ある?
って思ってた。
多分、意味はある。
そういうことの1つ1つが必要なステップで
今に繋がってることも、頭ではわかってるんだ。
でも「言葉で」たくさん説明してくれるのを聞いて
それが嵐の誠意なんだとしても
説明しなきゃ、こういうすごいことなんですよ
ってわかんないことの、何がすごいんだ?
という、素人的なんだろう受け止め方しかできなかった。

そういうことを求めてるわけじゃない。

そういう心と頭のせめぎ合いの中に
この数年はいたように思う。



こないだのアラフェス。
第一部。
とってもとっても楽しかった。
大好きな嵐が詰まってた。
画面としても
観客がいないこともあったと思うけど
とてもいっぱい「人」が映っていたようにも思う。

あ、こういうの待ってるファンがいることわかってるのか
って思った。

一転、第二部。
そこには、スケールの大きくなった嵐がいた。
多分、これが嵐が見せたい嵐なんだろう、と思った。
でも、正直私にとってはつまんなかった。
セットリストも、演出も。
すごいなー、わー、
とは思うんだ。
智が歌う。
それも一瞬一瞬が大切で
素敵、って思ってる。
でも違う。
それをまた、思い知らされた。

そして、ネトフリを見た。

なるほど。
嵐が見せたい嵐は
やっぱり潤くんが見せたい「嵐」なんだ。
潤くんが0から100まで全部なのもわかった。
とてもとても、細かく。
とてもとても、繊細に。
とてもとてもすごい労力と
とてもとても熱い熱量で。
きっと、いろんなことに気が付いて
いろんなことも気になって
イメージを実現する実力がある。
お金もある。
んだろう。

4人がその「嵐」であるためにとても真剣で。
それが5人の総意なのもわかった。
智はそれをやりたいんだ、
「潤くんのやりたいをやりたい」
が、私の愛する智なんだ、
ってこともよくわかった。
それが「総意」なんだということも。


悲しいことに・・・
潤くんが見せたい嵐は
私が好きな嵐ではない。

「ではない」ではないんだけど。
本当は。

どんなにすごい演出も光も花火も
計算されつくされたものも
嵐が歌い、踊る前では霞む。
嵐の笑顔の前では霞む。
私は彼らが歌い、踊り、笑う。
それがただただ好きなんだ。

やっぱりここにたどり着いた。

何度もそう思い、
何度ももやもやして
不満をこぼしてみたり
やめようと思ってみたり
色々したけど。
やっぱりここにしかたどり着かない。

ほんとは・・
展覧会の潤くんの部屋の
たくさんのセトリの種になるだろうメモに
実現しなかった
大好きな、
まだ見たことのない楽曲の数々を見た。
だから、潤くんはきっと、
わかってくれてるんだろうと思う。
でも彼はプロだから
エンターテイメントとして
「嵐」が演じるには
『嵌まらなかった』楽曲たちが
落選してしまったんだろう。
現実のプロジェクトの中で
計算されつくされた結論に達するまでに
たくさんの葛藤と検討と苦悩があっただろう。

でもさ。
その出来上がったものを
私は「つまんないや」って思ってしまうんだ。
がっかり<幸せ・・だからさ。
つい、ついてってしまうんだけど。

そして。
「嵐」には大野智がいるから。
大野智を見るためには
嵐を見るしかないから、
ここまでついてきてしまった。





だからね、
あと4日。
そこまで、一生懸命ついていく。

バカみたいにグッズも買って。
来年になったら、大量に届くんだ。
切なくなるほどに。

そしてさ
また期待してしまうんだよ。
大好きだから
大きく手を振りたくないから・・
次のコンサートは私の大好きな嵐なんじゃないか?
って。



2020年で一旦畳んでくれるのは
私にとってはありがたいんだ。
私も自然に嵐から離れることができるんだ。
離れざるを得ないんだ。

次のことは考えない。
寂しさの後にどんな感情が顕れるのかわからない。
それでも、嵐が見たいかもしれないし
もういいや、ってなるかもしれない。
大きく手を振ってお別れするかもしれない。

その日が来たら。
その時は。

これまでの11年に感謝して
大きく大きく手を振ろう。

だってすごーく楽しかったもん。
大好きだったんだもん。

未来がわかんないから
自分の感情もいまいちわかんないから
吐き出してみたくなった。
支離滅裂だけど。



そして、智くんへ。
あなたが「ただの大野智」に還れるときまで
あと4日。
どうか無事で。
その日を迎えてください。
いつでも、どこにいても
どんな人生だったとしても
あなたの幸せを願っています。