良い映画は何度見ても新たな発見がある。
6年前の北米出張の際、復路の機内で4本観た映画の内の一本。
その際の感想は、相当うっす~いものだった 笑
 
一般的かつ、素直な理解では1960年代の黒人差別が色濃く残るアメリカで、黒人ピアニストとイタリア系白人のボディガードが、(当時のアメリカ社会においては)逆転的な主従関係のもと、南部への演奏旅行を通じて友情と理解を深めていく実話をもとにした感動作、である。

 

それでいい。現代アメリカでも現実的に存在し、おそらく永遠になくなることはない差別社会で、このような作品は人々に希望と感動を与える。

作品自体も社会問題を重々しく捉えるのではなく、ウィットとユーモアに富んだ軽妙なタッチで、主人公のドンとトニーの旅を魅力的に描いている。

 

だが世の中は劇中でトニーが言っていた通り「complicated」である。

ドンの遺族から、原作を書いたトニー・ヴァレロンガは本質を書いておらず、ドンの名誉を貶めているとか、いわゆる白人の救世主を描いた作品だ、とか批判を浴びているのも事実。

だが、この世界はとても複雑で、ある側面から見たら正義でも違った角度で見たら、そうではないということがある。

 

だからこの作品が本当に伝えたかったことは何か、というのは自分なりの解釈で良いのだと思う。そもそも映画をはじめとした芸術というのものはそうあるべきだ。

MATTも6年前に鑑賞した際は、差別主義を痛烈に風刺した名作だ、という感想で終わっていたので、今回改めて観てみて本当に良かったと思う。

通算8年もアメリカに住んでいながらも、所詮は駐在生活で本当のアメリカの姿など理解できていないことがよくわかった。

劇中に出てくる様々なシーンで、一つ一つの出来事を額面通りに受けとらず、よく考えないといけない。

 

2度目の鑑賞で、この映画が伝えたかったことの一つとして、ラストシーンにそれが描かれていたことに改めて気づいた。

トニーの家のクリスマスパーティに誘われて、一度は断ったドンだったが、自らの意思で再度トニー家を訪れて、トニー一家に暖かく迎え入れられるところでお話は終わる。

 

ドンは孤独だった。黒人の中でもエリート層であるため、黒人社会からも距離を置かれている。またゲイというセクシャリティのため、当時の社会では人としての尊厳も保証されていない。そんな孤独なドンが、トニーという自らの信念だけで生きていく友人と出会い、心を少しずつ開いていく。そして最後は勇気を持って、自らの意思でトニーの家を訪問するのだ。

 

ドンは弱虫な男ではなかった。黒人差別の強いディープサウスに演奏ツアーを組んだのも、彼なりの勇気に基づくものだった。

だけど、それは彼にとっての本当の勇気ではなかった。長年疎遠だった兄に連絡を取ることができず、トニーに寂しかったら自分から動け、と言われる。これがラストシーンにもつながっているのだが、まさにドンは旅の終わりに本当の勇気とは何かを知ったのだ。

 

こういった視点で見ると、映画自体がどう評価されようと構わなくなる。

人を信じ、勇気を持って自ら能動的に行動する。

その勇気が人々を感動させる。

「グリーンブック」が感動的なのは、そこにこそあるのではないかと思うのだ。

 

MATTの好きなロードムービースタイルの本作は、色々な街を巡る。

ターコイズグリーンのキャディラック・ドゥ・ヴィル。

かっこええなあ、、、、この時代のアメ車が最高。

 

ドンとトニーは以下の街を巡っていく。

 

オハイオ州を経由して、

インディアナ州 ハノーヴァー

アイオワ州 シーダーラピッズ

ケンタッキー州 ルイヴィル

ノースカロライナ州 ローリー

ジョージア州 メイコン

テネシー州 メンフィス

アーカンソー州 リトルロック

ルイジアナ州 バトンルージュ

ミシシッピー州 トゥーペロ、ジャクソン

アラバマ州 バームンガム

 

いやあ、すごい距離走っている。

今ならADAS(運転支援システム)で快適ドライブだろうが、60年前のアメ車で走るのはほんと一苦労だっただろう。

 

長旅の中で様々なエピソードがありどれも楽しいが、ケンタッキーフライドチキンを車中でトニーがドンに無理やり食べさせるシーンは、二人の距離が少し近づくエピソードで記憶に残る。

 

ちなみに映画のタイトルにもなったグリーンブックのその後だが、Wikipediaによると以下の通り。「1964年に公民権法が議会を通過し、『グリーン・ブック』を必要ならしめていた類型的な形での人種差別が禁止されると、じきに廃刊となり忘れられていった。同書への関心は、21世紀初頭、ジム・クロウ法時代の黒人旅行研究に関連して復活した」とある。

 

その存在を知るととても悲しい気分になるが、決して忘れてはならない過去である。