その日の夜は、珍しくタモツのほうから電話があった。

「もしもしオレだけど。たまたま今日仕事が早く終わったからさ・・・」

ついこの間、電話で喧嘩をしたのを忘れたような明るい口調だったが、レナのご機嫌を取る為に電話してきたのは明らかだった。それが透けて見えるのが、レナは嫌だった。

「どうしたの?」
「なんだよ、オレから電話したらダメなのかよ」
「そんなことないけど…」

その後は、最近見た映画や会社のグチなど、タモツが一方的にしゃべっていたが、レナは終始うわの空だった。

「おい、オレの話し聞いてる?」

レナはおもむろに切り出した

「あのさ、今度の日曜、結婚式なんだ」
「・・・誰の?」

タモツが動揺しているのはあきらかだった。それはレナが急に話題を変えたからなのか、「結婚」という単語に反応したのかは分からなかったが、レナは続けた。

「同僚のカオリの」
「・・・そうか」
「29歳で結婚だから、ギリギリよね?30過ぎると婚期が遅れるって言うから」
「あぁ・・・、でも最近は晩婚の人も増えてるしな」
「そんなことないわよ。私なんか会社でもう女扱いされてないんだから!」

だんだん語気が強くなっている自分に気がついて、レナは話すのをやめた。

「ゴメン、仕事で疲れてるの」

そうレナが言うと、タモツは絞り出すように

「まぁ、また電話するよ。・・・そのカオリちゃんだっけ?よろしく言っといて」

レナの気持ちを理解しないまま電話を切ろうとするタモツに、我慢できなかった。

「あんたカオリに会った事ないでしょ!どうよろしく言うのよ!バッカじゃないの!」

そう言うと、レナは携帯を切った。
珍しくタモツのほうから電話してきてくれのに、なぜ自分はこんなにイライラしてるのだろう?
「この間はゴメンな」の一言がなかったから?
「結婚」という言葉が出たとたんにタモツがうろたえたから?
いいや、違う。
そうではなく、もっと根本的なものがレナの中で納得できてないからだと感じていた。だからタモツに対して多くを求めるクセに、全て否定的になってしまう。
根本的なものって何?
愛とかそんな壮大で漠然としたものじゃない。もっと些細ではっきりしたもの。
でも、付き合って10年以上という長い年月の中で、その根本的なものがわからなくなってしまった。埋もれてしまっているのか、失ってしまったのか
わからない。
わからないから考えるのをやめるが、だからまた繰り返す。
前に進みたいが、右足しか前に出せずに、でも前に進む為に延々右足を出し続けて、結局はその場をグルグルグルグル、グルグルグルグル回っているだけのような気分だった。
レナの働く会社は、西新宿のオフィスビルの中にある。といっても大企業ではなく、小学校の教材などを扱う社員15人程度の中小企業。レナはその会社で経理を担当していた。
ある日のお昼休み、レナは自分のデスクで一人、自分で作った弁当を食べていた。すると、男性社員同士の何気ない会話が耳に入ってきた。

「カオリちゃん、いよいよ来月で退職だな」
「おい、やけに寂しそうじゃん。さては、おまえ…」
「バカ言うなよ!オレはただ、あの子結婚願望強かったから、三十路手前で相手見つかってよかったなって思っただけだよ」
「カオリちゃんも、晴れて寿退社かぁ!まぁ、女は30過ぎると婚期が遅れるって言うもんな」

男同士の何気ない会話を特に気にするわけでもなく、淡々と食事を続けるレナの耳に、強い口調で男性社員を制するカオリの声が飛び込んできた。

「シ~ッ!声が大きいわよ!」

カオリのその言葉は、男性社員に向けられた言葉ではなく、明らかに35歳のレナに向けられた言葉だとレナは感じた。カオリのその言葉がなければ聞き流すことが出来たのに、カオリのその気遣いの言葉こそレナの心を深くエグった。

「あ、あぁ…。おい、タバコ吸いにいこうぜ」
「おぉ…」

男性社員は空気を察したらしく、その二人とカオリはその場を立ち去った。その間、レナはただただ淡々と、自分の作った弁当を食べていた。しかし、心の中はチクチクしていた。
三人の姿が見えなくなるのをチラリと確認すると、レナは口に運びかけていたタコさんウィンナーを弁当箱に戻して蓋をした。

「結婚式、来てくれますよね?」

レナはふと、半年前にカオリに言われた言葉を思い出した。

「ええ、もちろんよ!おめでとうネ」

レナは自分があの時言った言葉を振り返りながら、今はそう思えていない自分が嫌になって、寂しい気持ちになった。
「しかたないだろ!オレだって・・・」

タモツは携帯に向かって声を荒げたが、レナの応答はなく、代わりに「ツー、ツー、ツー」という虚しい音だけが繰り返された。

「面倒クサイなぁ…」

タモツはワンルームの天井にぶら下がった蛍光灯のヒモの先端を見つめながら呟いた。
タモツがレナと付き合うことになったのは、大学時代のテニスサークルで夏合宿に行った最後の夜だった。
みんなが寝静まった中、宿舎から抜け出したタモツは、丘の上で満天の星空を見つめながら、将来の不安と向き合っていた。
たいして刺激的な思い出もなく過ごした大学の4年間が終わろうとしている。就職活動も上手くいっていない中で瞬くキレイな星々をタモツは疎ましく思った。

「な~にしてんの?」

ビクッとして振り替えると、そこにレナが立っていた。
サークルの女子の中でも地味なほうの彼女を、タモツはいままで意識したことがなかったが、暗闇の中、月明かりに照らされたレナは、とても魅力的に思えた。

「いや、ちょっとな…」

すると、レナはタモツの横に座り、一方的に静かに話し始めた。
彼女が話したその内容は、さっきまでタモツが星を見つめながら思っていた悩みと一緒だった。

「悩んでるのはオレだけじゃないんだな…」

タモツは心の中でそう呟くと、レナの肩を抱き寄せた。
そして、ごくごく自然な流れで、二人は付き合う事になった。そこには告白というロマンティックなシチュエーションもなく、ごくごく自然の流れで…。