遮断する | 伊藤和磨オフィシャルブログ Powered by Ameba

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昨年の調査でスマホの所持率を調べたところ、前年と比べて3倍の29.3%になったそうだ。

自分もスマホを使っているが、どこに居てもGmailをチェックできるので、仕事の面でも本当に役立っている。
どんどん優れたアプリが開発され、1台あればどんな情報もいち早く入手可能なスマホは、人の暮らしに増々浸透しつつある。

しかし、便利な代償として人の大事なものを奪いつつある気がしている。
それは五感と穏やかな感情。

周囲を見渡せば道路でも、電車の中でも、車の中でも、レストランでも、スマホを片手に何かをしている人が本当に多くなった。
先日、友人を祝ための食事会をしたのだが、その友人の前には2台の携帯が置いてあって、数分をおきにスマホでFacebookをチェックしていた。まるで、デイトレーダーのように忙しなく。

でも、こういう光景は珍しくない。
カップルでも、お互い携帯をいじくりながら食事をしている風景を見かけるし、親子でもお互い携帯をいじりながら、気もそぞろで会話をしている。
恐らく、目の前にいる人と携帯電話への意識は、半々といったところなのだろうか。
そんなにいつもチェックしなければいけない情報など、あるはずもない。

こういう現象は、海外でも普通になりつつある。
欧州人はプライドが高くて、簡単には流行物に染まらないかと思っていたが、西も東も何処に行ってもスマホに汚染されている。
今日では世界中の人たちが、下を向いている過ごしているのだ。

携帯がなかった頃の人々が今の光景をみたら、間違いなく気味悪がるだろう。

昨年、ブルガリア、ルーマニア、トルコを周遊したときに、携帯の電池が切れてしまい、ただのガラスの板になった。
仕方なくショルダーバッグの底にしまったが、異国の地で通信手段を失ったことで、少しの間気分が落ち着かなかった。
仕事のメールや電話に対応できないことも気になった。
景色が変わる度に、ブログ用やFB用の写真を撮ろうと、頻繁にポケットへ手をやる自分の習性に気付く。

でも、携帯を使うのを諦めようと諦めた途端に、イスタンブールの街に漂う潮の香りがした。
街の明るさが増し、肌で風を感じることができ、全てが鮮明になった。
誰からも掛かってこないと思うと、とても気が楽になる。
この時、常に繋がっている事の煩わしさを知った。
ネットワークから解放された瞬間に、急に五感が働き始めたのだ。

それまで自分の目ん玉で景色をみていたつもりが、携帯とカメラのレンズを通して景色を見ていた事を知った。
スマホを握りしめて暮らしていると、五感が鈍り、気持ちのゆとりを失う。
そして、バーチャルな繋がりのために、リアルな繋がりを壊してしまう怖さを思った。

自分にとって携帯電話は便利な道具であるのと同時に、目の前で起きていることに対する集中を妨げる、煩わしいノイズのような存在なんだろう。

昭和生まれの人であれば、今の世の中が切ないほどよギスギスしていて、生き難くなっていると感じられているのではないだろうか。
自分よりも年上の人であれば「どうしてこんなに素晴らしい世界になったのか!」と思うよりも、「どうしてこんなになってしまったのだろうか。。。」と感じている人の方が多いのでは。
世界が急ピッチでおかしくなり出したのは、PCと携帯が広く普及した頃からのように思うのは自分だけだろうか。(物に罪はないが、人間が理性的に扱えない)

もし、あの頃(それぞれ思う時代は異なるが)の時代に戻したいと思うのであれば、携帯とPCから距離をおくことが必要なのだと思う。無理な話だが。。。

五木寛之氏は、黒電話ですら煩わしく思い、布団に包んで押し入れに突っ込んでいたそうだ。
そして、電話がなると「おっ、鈴虫が哭いているよ」と奥さんと微かに聞こえる音色を楽しんでいたそうだ。

皆さんも月に1度、お休みの日に携帯を家に置いて出掛けてみるのは如何だろう。
大切な人には事前に知らせておけば問題ない。
対話の中身も、料理の味も、目に映る景色も、全てがより濃密なものになり、普段何気なく通り過ぎてしまったものに、何度も足を止めることになると思う。