今回は、街頭演説チャレンジのお話をさせていただきます。

 

 

社会を変える人を標榜し、「変人」というのぼり旗を掲げての街頭演説チャレンジですが、大好評の中、雨が降ろうが槍が降ろうが連日実施中です。

 

11月17日までに119回を実施することができました。

 

早いもので、次回で挑戦を再開してから40回を迎えます。

 

街頭演説をする僕に遭遇する度に、「大音量が迷惑だ!」とお叱りをくださるオジサンも、毎回「僕も世のため人のためだと思って活動しておりますので、ご容赦ください」と伝え続けた結果、許してくれるようになりました。

 

活動にご理解をいただけたのか、こいつには何を言っても無駄だと諦められたのかは定かではありませんが、前者であることを信じてやみません。

 

 

また、最近の僕は、子どもたちから人気です。

 

幼児から高校生まで、通りかかる色んな子が「がんばれー!」とエールを送ってくれます。

 

子どもたちの純粋な視点から、好意を持ってもらえるということは、すごく嬉しいし励みになります。

 

僕の活動に触れたみんなにとって、主権者教育の一環にもなればいいなぁとも思っています。

 

 

もちろん、話の内容を一番大切にしています。

 

再開後、これまでに扱ってきた主なテーマは、「地方議員の仕事とは何か」というものや、「本来あるべき姿の選挙というものを実現していくための地方自治の課題」といった具合に、極めて硬派であり社会にとって重要なものをチョイスしてきました。

 

このあたりのテーマについて、僕がこれまでに綴ってきた記事のリンクも貼り付けさせていただきます。

 

リンクの中にはさらに関連のリンクがあるという松木ブログの螺旋へいってらっしゃい(笑)。

 

 

 

 

そんなこんなで、現在、僕が街頭演説で取り扱っているテーマは、「巷にはびこる自己責任論」についてです。

 

何だか、自己責任が問われるということが当たり前のようになっていませんか?

 

日本国内の格差というものが、もはや階級化されているという観点で行われたある研究では、社会構造上の理由で望まなくともその境遇にある低所得階層の人の中にも、自らの境遇を自己責任であると認識する考えが広がっているという結果が出ています。

 

僕は、これまでにたくさんの社会的な課題を解決したいと思って活動してきましたが、教育や福祉などの分野で毎回のように邪魔してくるのが「自己責任論」です。

 

 

例えば、児童虐待の話。

 

児童虐待は、家庭の経済的困難や社会的孤立、生活や子育て上の困りごとなどの環境的要因が重なることで、その発生リスクが高まるものであるということがわかってきました。

 

児童虐待を社会からなくしていくためには、発生リスクを抑制するための多様な視点からの子育て支援などを推進していく必要があります。

 

この議論ですぐに顔を出すのが自己責任論。

 

「子どもを育てるのは家庭の自己責任だ」というものです。

 

この理屈でいくと、「児童虐待なんて自覚の足りない保護者個人の問題だ」とか、「親ならもっとしっかりしろ」ということに帰結しがちです。

 

 

どんな状況であれ、子どもを虐待することはあってはならないことです。

 

加害者である保護者を許せないという気持ちはよく理解できます。

 

ですが、児童虐待が、環境的要因が引き金を引く社会的課題である以上、その要因を取り除いていかなければ、この社会から児童虐待がなくなることはありません。

 

その家庭には、社会構造上の理由から、望まなくとも都市部で核家族として生活する中で社会的な孤立状態になり、誰にも相談できずに悲劇が起こったという背景があるかもしれません。

 

その家庭がその境遇に陥るまでに、保護者の育った環境が、十分な教育を得られるようなものだったのか。

 

教育が十分であったとしても、安定的な職業の選択ができるような社会環境や、子育てをする上で十分な職場環境が整っていたのか。

 

保護者の手助けをしてくれるような親戚や知人がいたのか。

 

恐らく、たくさんの偶然が重なって悲劇が起こります。

 

そこに、どれだけの自己責任があるのでしょうか。

 

 

児童虐待は様々な要因が絡み合う社会的な課題なので、今回想定したストーリーの中に、自己責任がどこまで問われるべきなのかということに関する多くの材料が現れてきたと思います。

 

それは、自殺や貧困などについて考えた場合においても、同じことが言えるはずです。

 

 

自己責任という言葉は、僕たちの社会が教育や福祉の政策を進めるために社会的合意を得ようとする時、大きなハードルとなります。

 

一人ひとりが責任感を持って、自立した生活を実現しようとすることはとても大切なことだと思います。

 

だけど、表面上の自己責任という言葉によって、現に困難を抱えている人が救われないような社会でいいはずがないです。

自己責任という言葉が重荷となり、困難を抱えた人が、本当のギリギリまで耐え抜く必要もないはずだし、その先に虐待や自殺という悲劇が起こるようなことはあってはならないはずです。

 

 

そもそもの話をすれば、自己責任だけで生きてきたという人なんてほとんどいないと思います。

 

誰だって、多かれ少なかれ、誰かに助けられ、誰かに足を引っ張られて生きているんじゃないかなぁ。

 

だから、自己責任という言葉を、みんなで疑っていきませんか?

 

そうしたら、きっと僕たちの社会はもっと素敵なものになっていく。

 

 

我ながら、結構いい話ができたと自負していますが(笑)、このお話をたくさんの人に伝えるために、これからも街頭演説を頑張ろうと思います!

 

 

後期からついに大学院の授業が一部対面式になり、キャンパスライフを満喫している感を味わうために一人で学食に行った結果、ホウレン草とオクラばっかり食べてしまったことを報告させていただき、今回の記事の結びといたします。