今回は、前回に引き続いて令和2年第3回定例会での一般質問についてお話させていただきます。
現代の日本における民主主義を考えていく上で、僕が非常に重要であると考えている住民投票について質問をしました。
2回に分けて引っ張った割に、内容としてはイマイチです。
以前の記事で壮大な理論を展開した通り、選挙という制度によって生まれたひずみによって、投票率の低下や政治的無関心というものが進んでいるのではないかというのが、この質問の核心部分でした。
人を選ぶ選挙ではなく個別政策の賛否を選択する住民投票には、自分の投票行動が社会に影響をあたえるという政治的有効性感覚や、賛否を選択するために市民が社会について主体的に考える機会を創出する性質があると僕は考えています。
首長と議員を選挙で選出しておきながら住民投票を行うということは、はっきり言って邪道です。
とは言え、低い投票率や政治的無関心という社会問題を放置するわけにはいかないわけで、選挙啓発や社会教育などによる市民へのアプローチでは効果が限定的であり、その広がりも決して速くはありません。
色々と考えてきたけど、今の社会でそうした効果がもっとも見込めるのが住民投票なんだろうと思います。
ということで、邪道な政策選択ツールとしての住民投票の姿だけを見るのではなく、選挙制度で生まれるひずみをフォローしてくれるという横顔についても見ていきません?ってな感じで、大分市の見解を聞いてみました。
だけど、冒頭で述べたように、つれない回答しかもらえませんでした。
ほぼゼロ回答。
僕の解釈では、大分市執行部の立場上、住民投票について積極的に発言することは議会の存在を軽視することにもつながりかねないというハードルがあったのだろうと思います。
前回の記事に書かせていただいた、子どもの貧困問題を考える上での学校と学習塾の関係についても同じことが言えますが、重大な問題に切り込んでいくためには、既存の概念を変換する必要があるはずです。
既存の概念が社会問題を作り出しているわけですから。
今回の議会では、僕の力量では既存の概念を変換するには至らなかったということです。
非常に悔しいですが、自らの仮説を信じ、刀を研いで、今後に備えるべし!です。
なんだかんだで、青年議員が地方議会で大きな問題にチャレンジした意義はあったであろう!と、負け犬の遠吠えをさせていただき、今回の記事の結びといたします。