【依存から自立へのプロセス】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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ちゅーことで、

チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。

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 【依存から自立へのプロセス】


8月末で電力会社の契約を切って、接続を切ってもらったとき、家の中のエネルギーがきれいになったのを、はっきりと感じた。送電線からだったのかメーターからだったのか、電磁波スモッグはけっこうあったらしい。いつもいると慣れてしまうから感じなくなるけれど、とつぜん切れると、家の中の空気がさっぱりきれいになるのがわかる。


オフグリッドに変える準備も整わないまま、契約が切れる日が来てしまって、私はパニック状態で夜も眠れないくらいだったのだけれど、現実に電力が切れたときの感覚は、解放感以外の何ものでもなかった。電力が繋がっているだけで、こんなにも囚われていたのかと思った。


オーストリアは水が豊富な国なので、水力だけでほぼすべての電力需要をカバーできるくらいだったから、かつては電力も安くて安心感があった。河川の流れを使った発電所があちこちにあって、それで電力をまかなっている。ドナウ川だけでも、発電所がいくつもあって、かなりの電力を作っている。


それが、EUになって公共事業が民営化されるようになったら、人員削減されてサービスが悪くなった一方で、料金も上がっていった。料金システムが複雑になって、いろいろな料金契約ができるようになったのだけれど、安くなったわけではない。結局のところ、複雑になってわかりにくくなったところで、全体として値上げしていたような気がする。あの頃から、やたらかっこいい宣伝をするようになったのだけれど、システムがわかりにくく不透明になって、人間的な信頼感がなくなった。


この数年で、世界の権力支配構造がどうなっているのかがわかってきたから、電力会社に何が起こっていたのかも、想像がつく。民営化とか自由化とかいったら聞こえはいいけれど、もともと国が税金を使って国民のためにやっていた事業を、企業が自分の利益のためにやるようになったのだ。安定した雇用を確保することも、安くて快適なサービスを提供することも、企業の利益にとってはそれほど重要なことではない。ほとんど完全な独占事業であれば、なおさらのことだ。


EUを挙げてAIに対応したメーターを導入するようになってから、窓口の従業員もどんどん減っていって、近くのサービスセンターは閉鎖になるという。前は大勢の人が働いていて活気があったし、何より人間的な対応があった。だけどしまいには、一人か二人が窓口にいるだけで、それも何だか不親切だし、いかにもつまらなそうに仕事をしている。


前はお客さんの要求に合わせて、自分で考えてアレンジしてあげるようなことができていたのに、今はそんな自由を与えられてはいないようだ。融通がまるきり利かなくなったし、だから仕事していても、面白くも何ともないのだと思う。お客さんに喜んでもらえるようなこともないし、上からの指示通りに動くことしかできなくなった。それでもまだ仕事があるだけいいと思うしかないのかもしれない。


サービスセンターが縮小していく一方で、AI化したメーターの導入には、十分すぎるくらいの人員を使っているらしくて、メーターを取り替えろという電話は何度もかかってくる。それがだんだん恐喝みたいになっていって、一年前くらいからは交換を拒否する消費者に対して訴訟が起こされるまでになった。


昔ながらの回転式のメーターなら、半永久的に問題なく使えるのに、繊細な電子機器のメーターに取り換えなければいけないというのだ。メーターも交換もただでやってくれるから、消費者はお金を払う必要はないのだけれど、やっぱりそれも電力料金から出しているのだろうから、どのみち払ってはいるのだと思う。


しかも、半永久的に使えるようなメーターとは違って、10年ごととかに新しいものに取り換えるらしい。電力会社は何のためにやっているのか知らないけれど、メーカーにとってはものすごい売上になることは確かだ。メンテナンスやデータ処理にも経費がかかるはずだから、それも含めたら、請け負う会社は莫大な利益が約束されることになる。


ソ連崩壊後のロシアや東欧では、やはり公共事業が一気に民営化された結果、公共料金が高くなった一方でサービスが悪くなり、まともに機能しないような状態になっていたそうだ。雇用がなくなり、貧困化して、治安が悪くなった。今ヨーロッパで起こっていることは、それほど急激ではないけれど、要するに同じことのように思える。国が国民の生活のためにやっていた事業が、企業の利益追求のための事業に取って代われば、雇用削減して料金が上がる。消費者のためよりも利益が優先だから、便利で確かな製品を導入しようとする代わりに、経費がかかっても欠陥があっても、腐敗のお金がまわる企業の製品を導入しようとする。


この数年で、製薬ロビーが国際NGOを使って政治工作し、税金で製品が全国配布されるようにしていたことなどが表に出てきていた。この場合も、利益が第一なので、安全性や効果などはどうでもいいのだ。そうしたことが社会問題にならないよう、認可や監査に関わる政府機関も巻き込んでいた。要するにそうやってモノポリー状態にしてしまうわけなのだけれど、モノポリー状態ができるほどに、巨額の資金が入ってくるようになり、それで工作に使うお金がさらにまわるようになる。この悪循環で、搾取がどんどん激しくなり、世の中はまるで血の気が失せたようになっていく。


それでだんだん物騒になっていたのか、電力会社のサービスセンターも、二人だけ残っていた窓口要員を、身体の大きい強そうな警備員がガードしていた。役所の入り口も、前は案内の人がいたのに、今は警備員になっていて、建物に入ってくる人たちの危険物チェックをしている。何かと不親切になって、搾り上げられるようなことになっていたら、暴力をふるう人だって出ることだろう。住民のために働くのではなくて、上からの指示でモノポリーの利益のために働かされるようなことになっているのだろうから。


今、世界的にこれまでの支配構造が崩れていこうとしているから、こうしたことも、おそらくはそのプロセスの中で起こっていることなのかもしれない。その中で、もはや電力供給に依存していたらどうにでもされてしまうという事態になって、オフグリッドに移行しようとしている人が増えている。しかし、前からオフグリッドはやりたかったことだった。だから、こんな機会があったおかげで、半ば無理やりにでも実現させてしまえたのは、ありがたいと言えばありがたいことではある。


電力が切れる直前が、精神的に一番ハードで、ありとある事態を想定して、夜も眠れないありさまだった。だけど、いざ接続が切り離されたら、これで自由になれたという解放感の方が大きかった。すでにパワーステーションとバッテリー、ガソリン発電機は用意してあったけれど、太陽パネルにはまだ接続できていなかった。そんな状態でも、電気が足りなくなったらという不安感よりも、解放感の方が大きかったのだ。


オフグリッドになると、とたんに入力と出力のバランスを考えなければならなくなる。何にどれくらいの電力が要るのか、どれくらいの電力が入ってくるのか。もともと電力にはあまり頼らない生活をしていたけれど、いざオフグリッドになると、冷蔵庫を維持するのは実はなかなか大変だということがわかる。照明やなんかは使わなくても何とかなるけれど、冷蔵庫は一定の電力をつねに供給し続けなければならないからだ。


電力供給なんていうものがなかった時代には、食糧は地下室とかに貯蔵していたし、冷凍保存する代わりに、干したり発酵させたりしていたわけだ。それなら冷蔵庫をやめて地下に貯蔵すれば、電力がなくても生きていけることになる。私はビールとかの飲み物は地下室に置いているけれど、地下室の温度は冷えすぎなくて、ちょうどおいしい温度になる。何というか、味が生きている感じがする。日本には地下室はないけれど、昔は床下に貯蔵庫があって、そこに味噌とか漬物とかを保存していた。飲み物とか果物とかは、井戸で冷やしていた。井戸で冷やしたスイカは、冷蔵庫で冷やしたのより遥かにおいしかった。


熱を出すものが何と言っても一番電力を食うんだけど、冬場ならば薪ストーブを焚いているから、お湯を沸かすのも料理するのも、すべて電力なしでできる。夏場だとストーブ焚かない代わりに、太陽熱が使えるから、茶色の瓶に水を入れて置いておけば、数時間でシャワーや洗濯に使えるような温水ができる。それで今日は、太陽熱で作った温水で、洗濯物を手洗いしていたりした。手洗いして手で絞ったのを、外に干しておけば、太陽熱と風とで数時間で乾燥して、しっかり紫外線で殺菌されていい香りになって干し上がる。これは、電力みたいな人工のものではない、自然のエネルギーだ。


電力供給に依存するのをやめたとき、それまで見えていなかったものが見えてくる。太陽や風の自然のエネルギーだけではなく、何よりもお金とか電気代とかそういう計算の後ろに隠れていた生きた時間のようなものが、見えてくるようだ。何かに依存するということは、やはり何かを他人まかせにして、自分では生きていないということなのだろう。


AIで管理化社会が進んでくると、自分で生きていない時間が増えてくるのだと思う。しかし、これは人間の本性ではないのだから、いつかは方向が変わっていくことになるはずだ。利益だとか採算だとか効率だとかの計算に追われるから、管理化に巻き込まれてしまうのだけれど、行くところまで行くと、本当の幸せはこんなものではないということに気づくことになる。物質的な豊かさよりも、友好的な職場だとか、お客さんに喜んでもらえる仕事だとか、人間的な対応ができる窓口だとか、そういうものこそが世の中の豊かさであり幸せなのだということに。


依存状態から飛び出していくのは、まるで世界が崩壊するような激しいプロセスだったりするけれど、飛び出してしまうと、自分が空をも飛べるような自在な力を実は持っていることに気づく。そんなものなのだと思う。ちょうど9月2日から冥王星が山羊座に戻ったとかで、世界的に破壊的な状況になっているようなのだけれど、それも管理化社会の依存状態から飛び出していくためなのかもしれない。おそらくは、まるで脱皮のような羽化のようなプロセスが起こっているのだ。


 

 

  

 

 

 

 

  

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表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

 

 

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告知当分ないよ~