【ミヒャエルと神さまとの出会いのこと】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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【ミヒャエルと神さまとの出会いのこと】


インナーチャイルドを解放するワークショップをやっていたときに、私が18年前、初めてミヒャエルや神さまに出会ったときの記憶がそのままに蘇ってきた。記憶が蘇っただけではなくて、セッションの中にまったくそのままに出てきたのだ。それで私はその日の被験者のインナーチャイルドを解放するために、18年前に私自身に起こった物語を、ほとんどそのままにその人のために演じることになった。インナーチャイルドを解放するセッションは今年に入ってから何度もやってきたけれど、こんなことは初めてだった。


2019年にようやく出版することができた「ミヒャエルと一緒に冒険に行く」という本に書いた話なのだけれど、私は18年前に、とつぜん神さまの声が聞こえるようになり、天使のような存在とコンタクトするようになった。今思えば、あれはまさに私自身のインナーチャイルドの解放というべきものだった。私が「神さま」や「ミヒャエル」という存在として受け取っていたものは、つまりは私がもともとの本当の大きさになったときの、意識の一部といったものだったのだ。


数年前からオンラインでいろいろなワークショップをやるようになって、私たち人間はもともとものすごく大きな力を持っている存在なのだということが、現実的に実感できるようになった。神の意識のような宇宙的な次元の意識も、さまざまな存在にテレパシー的にコンタクトして、現実を変えていく力も、私たちは無意識の領域にすべて持っている。意識の領域では、私たちは巨人のような大きさにもなり、宇宙と同じくらいの大きさになりもする。


そういうもともとの自分の大きさ、すべてに繋がりを持った自分自身の姿を思い出すのが、インナーチャイルドの解放なのだ。私が18年前に、神さまやミヒャエルとの出会いとして経験したものは、まさにそうしたものだったと言える。


その日の被験者を勤めてくれた人と私の間には、奇妙な共通点があった。それは、地球の反対側まで行って、ようやく母親から逃れられたと感じたということだった。私の母は世間的にいったらいい母親なのだけれど、無自覚に子供を支配してくるようなところがあった。彼女自身、そうした扱いを親から受けていたので、それが当たり前だと思っていたのだと思う。親から信頼されるということを知らなかったので、子供を信頼することもできなかったのだ。その上、子供を西洋的に育てようとして、当時流行の育児書通りに、子供をベビーベッドで隔離して育てた。そうしたことがいろいろあって、私はかなり最近まで、対人恐怖がひどくて、自閉的だった。


人に信頼される感覚が持てないし、自分を信頼することもできない。自然に人に頼り頼られるという関係を知らないから、何でも自分一人で解決しようとする一方、自分がやっていることが正しいのかどうなのかに自分で確信が持てない。親に日常的なことにいたるまでこと細かく支配されていると、自分で自分を信じることができなくなるのだ。母もまた、自分で自分を信じてはいなかった。何でも外から基準を与えられるのが当たり前だと思っていたのだと思う。


現代社会に生まれ育った私たちは、多かれ少なかれ支配されて育つ。自分自身の知覚を信じる代わりに、外から何が正しく何が悪いのかを与えられて、それに従うように条件づけられる。そうやって私たちは、もともと私たちが持っている大きな繋がりを忘れてしまうのだ。そんなものは子供っぽい幻想にすぎなくて、現実は厳しいのだと教えられ、その現実に適応するために、自分の本当の力を封じ、自分自身を信頼することを忘れていく。


私がミヒャエル、大天使ミカエルとして受け取っていたものは、私自身の魂の半分であり、私自身の男性性といったものだったのだと思う。つまり、子供の頃から切り離され封じ込められていた、私自身の意識だ。それは、宇宙全体とも境なく繋がっている、大きな意識の繋がりだ。



そうした意識は、もともと一つのものだったのだから、たとえ封じ込められても、何らかの形で存在し続けてはいたわけだ。それが小人みたいな小さな精霊の姿だったり、ツインソウルみたいな存在だったり、どこか遠くの国に住んでいる魔法使いのイメージだったりするのだと思う。


ミヒャエルと出会う前、私はよく追いかけられる夢を見て、恐怖で目を覚ましていた。犯罪者みたいな男が追いかけてきて、私は必死で家に閉じこもってカギをかけようとするのに、カギが壊れていて、扉を閉めることができない。もう襲われると思って叫ぼうとし、そこで目が覚める。


夢分析の本を読んでいると、追いかけてくる存在とは、実はその人が求めている存在だというようなことが書いてある。恐いのはその存在ではなくて、自分自身の欲求なのだと。そうやって少しずつ自分の夢の内容を理解するようになったら、見る夢が変わっていった。追いかけてくる男は、私に危害を加えようとしているのではなくて、私を誘い出そうとしていたのだ。それがわかったら、追いかけられるのではなくて、誰かが私を秘密の仲間のところに連れて行ってくれる夢を見るようになった。


意識の封じ込めとは、まさにこうした恐怖の条件づけなのだ。もともと自分が持っている力であり、そうした力との繋がりなのに、それがまるで追いかけてくる凶悪犯人のようなイメージにすり替えられている。だから、封じ込めを解くのは、この恐怖を越えていかなければならない。それはまるで、助けに来て手を差し伸べている人が、誘拐しようとして捕まえに来ている人のように思えるようなものだ。


あるときの夢では、私は大きな卵の殻の中に閉じこもっていた。卵の上は破れて開いていて、そこから覗き込んでいる人がいた。まるで生き埋めになった人を助けようとしているみたいに、穴を開けて、私を救出しようとしている様子だった。しかし、夢の中の私は、外へ出ようとはしていなかった。外に出るのは恐かった。するとそこに、白い翼をつけた男が飛び降りてきて、私に手を差し出したのだ。それで私はその男と手を繋いで、一緒に外へ出たのだけれど、外は大宇宙のようなところだった。その中へ、私は彼と一緒に飛び立っていった。


私がミヒャエルと呼んでいた存在、あるいはその意識は、未知の領域に出かけていく勇気や、世界に対する信頼のようなものだと言える。外に出ていって、現実を自分の意志で作り出していく力だと言ってもいい。だからミヒャエルは、意識の封じ込めを解いて、大きな可能性を解放する力なのだ。ミヒャエルは手を差し出して、新しい冒険に誘い出す。それはまるで、上も下もない大宇宙の中へ飛び込んでいくことのように思える。一人ではとても恐くてできないようなことでも、ミヒャエルと一緒なら出ていける。


だからミヒャエルは、ネバーエンディングストーリーのファルコンみたいな存在だ。あれは原作では、フッフールという幸運の白い龍なのだけれど、フッフールはどんなに絶望的な状況でも、必ず可能性を見出して、危機を切り抜けていくという不思議な能力を持っている。多くの力を封じ込められてきた私たちは、フッフールが持つこの力、つねに現実を切り拓いていく力を忘れている。だから私たちにとっては、現実はつねに八方ふさがりのように見える。八方ふさがりだから、閉じこもっていることになるのだけれど、だからこそ、そこにミヒャエルがやってきて、冒険に誘い出そうとするのだ。それは、私たち自身が封じ込めた意識であり、本来持っている力に他ならない。


この頃、たまたまマイケル・ジャクソンの昔の動画を見ていたら、まるでミヒャエルそのもののイメージだったので、ゾワゾワするくらいに驚いたことがある。You are not alone (君は一人じゃない)という曲で、舞台に上がって抱きついてくるファンを抱きしめながら歌い続けるというパフォーマンスを、彼はコンサートのたびにやっていた。そこで彼は、「君は一人じゃない。遠く離れていても、僕は君と一緒にいる」と歌っているのだ。


明らかにこの歌は、特定の相手のことではなく、すべての人に対して、「君は一人じゃない」と言っている。一人のファンを抱きしめながら、彼はすべてのファンたちを受け入れていることを示している。女性がほとんどのファンたちは、自身の封じ込められた魂の一部、男性性、といったものをマイケルに投影しているのだろう。それに対して彼は、このパフォーマンスで答えているわけだ。投影してもいいのだと。一人じゃないと思えたら、私たちは一人ではなくなる。それによって、それぞれ自分のミヒャエルに出会うことができるのだから。


ワークショップでは、ある力を解放して繋げるようなことをやっていたのだけれど、どうしてもその繋がりがすぐに切れてしまう。そういう繋がり、そういう力があることが、どうしても信じられないし、信じるのが恐いのだと思う。それならミヒャエルが私に対してやったみたいに、無理やり扉をこじ開けて引っぱり出したらいいんじゃないかと思ったのだ。それで、彼女のインナーチャイルドを連れ出して、神さまとミヒャエルに会わせてしまおうということになった。


神さまとは、ハイヤーセルフ、つまり高次元の自分の意識のことだ。ハイヤーセルフに出会う体験とは、完全にありのままで認められ、愛される体験だと言える。私たちは、世界にはいいことと悪いことがあって、悪いことをしたらいけないんじゃないかと思っている。だけど、神さまと出会ったとき、「これはさすがにダメなんじゃないか」と思うようなことでも、まるで愛らしくてたまらない、といった風に受け入れられるという体験をするのだ。それは、完全に善悪の概念を越えた次元だ。実のところ、善悪の概念などというものは、人々を支配しようとする人工的なすり込みにすぎなかったのだ。そして、まさにそれが自分で自分を信じられないという状況を作り出していた。


彼女を神さまに出会わせたとき、私がかつて経験したことと、まったく同じ場面が現れ、演じられていった。神さまは彼女の頭に黄金の冠をかぶせた。これは実のところ、頭頂チャクラから立ち上っている金色の光の柱であり、それによって私たちは宇宙的な知覚と宇宙の無条件の愛とに繋がっているのだ。メルヒェンで最後の大団円で必ず登場する黄金の冠とは、まさにそのことに他ならない。


そしてミヒャエルに出会わせると、ミヒャエルは白銀の剣を彼女に与えた。これは、ライトセーバーみたいに光でできた剣で、繋がりを作り、現実を自分の意志で作り出していく力なのだ。この剣を持たされて、彼女は当時の私と同じようにとまどっていた。そんなものを使う力が自分にあるとは思えないし、使うのが恐い。するとミヒャエルは、当時の私に対してやったのと同じように、剣を持って対面して、俺を刺してみろ、と言った。そして、彼女がおそるおそる剣を突き出したとき、ミヒャエルのハートとの間に光の繋がりができた。その光が彼女の背筋に入って、光の柱ができた。そのとき、ミヒャエルの力を使うことを、彼女は身体で覚えたのだ。「この力を持っていることを忘れるな」とミヒャエルが言った。


自分で自分を信じられない人にとっては、ミヒャエルの白銀の剣を使うのは、容易なことではない。それは愛の力に他ならないのだけれど、それがまるで人を傷つけることのように思えるのだ。自分が一歩踏み出すことが、人を傷つけ怒らせることのように思えてしまう。だから、少しずつ慣れていく以外にない。当時の私も、まるでまったくの初心者がおそるおそる剣術を習うような具合に、少しずつミヒャエルに手ほどきを受けていた。セッションのあとで、彼女はまだ疑わしそうな顔をしていたけれど、確かにミヒャエルの剣を受け取ったようだ。それならば、自ずと使い方を覚えていくことになるだろう。


白銀色に輝くミヒャエルの光の剣とは、意識の力で現実を変える力に他ならない。この力こそは、支配の世の中で封じ込められてきた力だった。この記憶が今出てきたということは、一体何を意味するのだろう? それは今、その力が解放されるときが来ているということを意味しているのかもしれない。

 



 

  

 

 

 

 

  

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表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

 

 

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告知当分ないよ~