【 「幸福の追求」という洗脳 】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

キセキを紡ぐ Rut of hope

毎日が創作生活
仕事で作ったモノ 趣味で作ったモノ その工程とか
光の粒を食べて生きていけたら素晴らしい

体力バカで猪突猛進中

 

 船木威徳さんのFacebookより転載させていただきます。

いつもありがとうございます。

⇩⇩⇩


    【 「幸福の追求」という洗脳 】

「石なんてみんな同じものさ、
石なんてみんな宝石なんだよ。
ところが人間ときたらそのうちの
いくつかしか目に見えないのさ」
モーリス・メーテルリンク「青い鳥」(新潮社)
 
いつのことだったか、私が一般に言う
「農業」をやろうと考えているのだと話した
ときに、それを聞いていた「親戚が農業を
やっている」という人が、難しいし、絶対に
利益は出ないからやめたほうがいい、と
言われたのを覚えています。
実際にやってみると、その人がいろいろと
言っていたことはまったくあっておらず
一言でいうとこの世のものとは想えないほど
の体験ができたし、数年前には想像も
しなかったような人間関係や知識・智慧を
得ることができました。
 
私のごくわずかな知識だけでも
ニンニクやお米、サツマイモや大豆が
育ってゆくときに見る「奇跡」のような
ありさまを何日でも話せるのでやめますが、
とにかく「やってみるもの」だなあと
畑やたんぼに立つといつも感じるものです。
 
私は小さな時から生きものが大好きです。
虫も魚も、鳥も、家畜も、草花やコケ、
山菜や木々も竹も、その姿、変化の様子を
見るのがなによりのエンタテインメント。
この間も、いなかのコンビニのフェンスに
群れる何百のスズメたちの愛らしさに
帰ってくるのが遅くなってしまいました。
 
この季節、見ていて心奪われるのは
キジの堂々としていてどこか素っ頓狂な姿。
とにかくかっこいい。
 
昨日も、田植えに使う紐(等間隔に苗を
植えてゆくためのスケール)を作っていて
すぐ近くを歩いている雄のキジを見ながら
ふと感じたことがあります。
 
キジは「幸せ」を感じているのだろうか?
いや、「幸せを追求している」のか?
もっと言えば「生きる目的」を意識したり、
考えたりしたことはあるのだろうか?
 
しろかきや田植えの始まった田んぼには
サギがあちこちに登場し、カラスも、
スズメも、今の季節ならウグイスも姿を
現わします。私は、大きくて美しいキジが
やはり好きなのですが、自分の姿を、
自分がキジに生まれてきたことをキジは
どう感じているのだろう?
 
人は、なにかにつけて「幸せ」を言います。
人は幸せになるために生まれてきた、とか
だれもが幸せに生きることを追求する権利が
ある、とか。
それはそうなのかもしれないし、そうでは
ないのかも知れない。私は最近想うのです。
 
幸せを求める前提は、
いまは「幸せでは『ない』」あるいは、
まだ「幸せ」に達していない、
という考えではないでしょうか。
 
温泉に入って、おいしいそばを食べて、
見事な明太子おにぎりを食べて
「ああ、幸せだ」と口では言うけれど、
テレビで高いステーキを食べている様子が
映ると、もっと「上位の」幸せがあるのでは
実はまだ、「幸せ」ではないのかも知れない
そう、感じてしまうかもしれません。
 
私は、人間を日々悩ませ、争いのもとにさえ
なっている根源的な想いは「劣等感」では
ないかと考えています。
この世に生まれるやいなや、親たちは
「生まれてきてくれただけで充分」と口では
言いながらも、「~ちゃんはもう歩けた、
~さんのうちはこんな勉強をさせている」
と、あらゆる人同士を比べます。
 
もちろんあらゆる人を絶対評価するような
ものさしはあるわけがないので、
見た目や、お金、偏差値や、所持品の量、
技術や知識量、身体能力で比べます。
 
多い少ない、できるできない、で比べれば
絶対に、永遠にその比較は終わりません。
なぜなら「上には上がいる」からです。
 
どんなに努力しても、どんなに修行しても
どんなに練習・訓練しても、してもしても
あなたやわたしより「すごい」人は、
必ずいるものです。
 
まあ、がっかりする話でしょうが、
これが現実です。
 
・・・私は、球技がまるでだめです。
将棋やトランプのルールをどうしても
記憶することができません。人の名前も
数秒で忘れてしまいます。打ち返したテニス
の球が、相手のコート内に入ったことは
一度もありません。
 
考えてみれば、やってもやっても、
できないことばかりの人生です。
 
でも、昨日、堂々と歩くキジを見ながら、
「いいな。かっこいいな。美しい・・・。」
と感じたのは、そこに一羽のキジしか
いなかったからではないか?
私を、いや、人間を「幸せ」から遠ざけて
いる考えこそ「上には上がいる」という
毎日繰り返されている他者との比較では
ないのだろうか?
 
もしかすると、「他人と比較する」という
終わりのないくだらない習慣こそが
人を幸せから常時引き離すためのシンプルな
 
『 洗脳 』ではないか?
 
賢い(賢そうな)人ほど、「~次元」という
ことばを使います。もちろん私たちは
3次元の世界に住んでいるのですが、これを
5次元とか、人によっては11次元の世界に
生きよう、などともはやことばあそびとしか
想えないような話を真剣にしているのです。
 
私は、あえて、2次元の世界に感じ、
考えたいと想うのです。
2次元の世界には「上も下もありません」。
2次元の世界から、3次元のこの世界を
のぞくなら、感動と感激ばかりでしょう。
いままで知り得なかった世界の広がり、
この世を満たす生命の奇跡的なつながり。
 
だれもが、必ず、他人にはできない、
「その人だけ」の考えかた、生き方、感じ方
を持っています。
それらを広げてゆくプロセスこそ
「幸せ」なのではないかと信じています。
 
「幸せ」とはなんなのかをまず、
人とは比べずに(比べられないないものだと
あたりまえの前提に立って)、自身の
感情や感覚を大切にして磨いてゆくときに
おのずと「幸せ」な生で満たされてゆく。
私はそう考えています。
 
つまり毎日、幸せに生きられるということ。
私のいまの幸せは、私がかわいがっている
作物や、カラスやウグイスと話せるように
なったことです。まだまだ深められますし、
おそらく今年中に、スズメとも、かなり
込み入ったコミュニケーションがとれると
楽しみでなりません。
 
 
(ふなきたけのり・百姓医者 2024/05/04)

 

  

毎週どこかで上映会⇩

 

 

 

 

 

 

 

表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

 

 

表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

 
 

 

 

え?