【共生感覚とリベラリズム】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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光の粒を食べて生きていけたら素晴らしい

体力バカで猪突猛進中

昨日、土砂降りの中での農作業は楽しかったな。

泥んこになって真菰を植えたり里いもを移植したり、

子どもに戻った感覚だった。

ずっとそうやって生きていけたら、、、

ホントはそうやって自分の食べるものをちょっと作ったり、昼寝したりしてのんびりゆるゆる生きていくのが1番楽しいんだろうな。

支配者に都合のよい価値観をインプットされちゃって、仕事は楽しくなくて辛いのが当たり前、とか思い込んでしまってる。

たぶん。


ちゅーことで

チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。

いつもありがとうございます。

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 【共生感覚とリベラリズム】


セミナーで、幸せだった過去の時間に戻って、その幸せを味わってくるというワークを皆でやっていると、不思議と誰も、大学に合格したとか、パーティの主役になったとか、事業に成功したとか、そういう普通に幸せと思われているようなことを思い出したりはしない。その代わりに、野原で遊んでいて楽しかったこととか、きれいな自然の中にいたときのこととか、あるいは誰かと一緒にいて楽しかったとか、そういう時に戻る人がほとんどだ。


実際、希望の大学に合格したとかそういうのは、いざ幸せの感覚を味わおうとすると、何だかものたりないのだ。そのときは最高の幸せだと思っていたはずなのに、実は頭でそう思っていただけだったらしい。本当にしみじみと幸せを味わっていたのは、何かに成功したとか、何かをもらったとかそういうことではなくて、野原で無心に遊んでいた子供の頃だとか、何ということもなく家族と過ごした時間だったりする。


私たち人間は、実はそういう風に自然の中で過ごすようなときに、一番幸せを感じるらしい。何かに成功するとか、何かを手に入れたとか、そういうことは、実は競争社会の中で植えつけられた価値観にすぎなかったようだ。結局のところ、自分の方が勝ったとか、自分だけ認められたとか得をしたとか、そうしたことは、つまりは自分の方が上だという優越感みたいなものでしかなかったりするからなのだと思う。


きれいな自然の中にいて幸せだというような感覚は、どっちが勝ったとかいうこととは、まったく無縁だ。それは、全身で感じる幸福感で、あらゆるレベルで大きな全体と有機的に繋がっているという感覚なのだ。自分がそうした全体の中の一部で、すべての感覚、すべての行動でたがいに作用し合っているという共生感覚だ。それこそが、至福の感覚になっているのだと思う。


多極的な世界とは、つまりはこうした世界なのだと思う。どちらが上もどちらが支配しているもない。ありとある繋がりがあり、すべてが作用し合っている、大きな全体があるだけだ。そして、その世界に生きることは、理屈ではなく、単純に幸せな感覚なのだ。


支配と戦いの時代が始まったとき、自然と共生する至福感の中で生きていた人たちは、次第に競争に勝つことが価値観になっていく。人より豊かであること、支配力を持つこと、人の上に立つことが、幸せなことだという価値観に置き換えられていくのだ。だから私たちは、ほとんど無意識に、人に勝つこと、人よりもよい成績を収めること、世間に認められること、人よりよい物を所有することなどを、幸せだと思って追いかけていく。しかし、そうしたときに感じる幸せは、理屈だけのもので、満たされる感覚ではない。おそらくは、だから私たちは、競争に勝つことや何かを消費することに、依存状態になってしまうのだろう。それは本当の幸福感ではないからだ。


先日、ロシアの哲学者アレクサンドル・ドゥギンに、アメリカのジャーナリスト、タッカー・カールソンがモスクワでインタビューした20分ほどの動画が、公開されていた。その中で、ドゥギンは西側諸国が危機的な状況にあることの根底的な原因になっているものはリベラリズムだと、興味深いことを言っていた。


それというのも、リベラリズムは、それまでの伝統的な価値観を束縛であるとして、そこから解放されるべきだとして、伝統的な集合的なアイデンティティから個人を切り離してしまうからなのだと、ドゥギンは言う。伝統的な集合的アイデンティティとはつまり、自分はどの一族の人間だとか、どの村の人間だとか、あるいはどこの神社の氏子だとか、神田川の水で産湯をつかった江戸っ子だとか、あるいは月山を見て育った庄内の人間だとか、そういう帰属意識だ。そこから、どう生きるべきかという価値観もあり、同じ価値観で生きている人間同志としての連帯感とか親しみとか信頼感とかそういうものも含まれる。


リベラリズムは、こうしたものを束縛であるとして、そこから脱出することで、自由になれるのだと言っている。しかし、伝統的な価値観への帰属意識を捨ててしまったとき、人は孤立した個人でしかなくなってしまう。そして、つまるところは、街へ出て雇われ人になることになるのだ。そこでは、お金を稼いで特別な消費をすることだけが、自由の表現のようになっている。してみると、リベラリズムは、自由になれると言いつつ、結局のところ、人を資本主義経済の奴隷にしてしまったということになりそうだ。これが西側諸国が危機的な状況になっていることの根本の問題だというのは、実に鋭い指摘だと思う。


このことは、ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる灰色の男たちの話を思い出させる。灰色の男たちは、人々がのんびりとした時間を過ごして幸せを感じていたのを、それは時間の無駄遣いだと言い聞かせて、その代わりに「意味のあること」をするようにし向けていく。その「意味のあること」というのが、つまりはお金を稼ぐことだとか、学校でいい成績を取るべく勉強することなのだ。その結果、のんびりと幸せを感じて、たがいに助け合いながら平和に生きていた人たちは、たがいに口を利く暇もなくなり、仕事に追いかけられるようになっていく。


生きる意味がわからないという悩みは、近代になってから初めて出てきたことだと思う。伝統的な集合的なアイデンティティを持って生きている人たち、生まれ育った土地の自然との共生関係の中で生活している人たちにとっては、その多層的多極的な大きな全体の中で生きることそのものが生きる意味なので、意味があるとかないとか頭で考えるようなものではなかったのだと思う。このことは、自然な環境の中で、自然と共生する生活をしてみると、理屈ではなくわかる。野草を採って食べたり、畑を作って野菜を育てたりしていると、そうしたことをしながら生きていくことそのものに、深く満たされる感覚があり、それ以外に生きる意味などというものを探す必要などなかったことがわかるからだ。


自然と共生して、大きな全体の中で生きる至福感や、その土地に代々生きてきて、自然と共生する技を作り上げてきた先祖たちの末裔だという帰属意識。そうしたものこそは、自分が世界に存在する意味を感じさせるものだと思うけれど、そうしたものから、リベラリズムは人を引き離してしまうのだ。そんなものは束縛だとか、貧乏くさいとか、田舎者だとか、古くさいとか言って、もっと自由で豊かになれるのだと言って聞かせる。それはある意味、まるで悪魔の誘惑そのものだ。自由になれると言って、実は奴隷にしてしまうのだから。


本当に満たされる感覚がないままに、一時の成功だとか新しい所有物だとか、旅行だとかパーティだとかの快楽を幸福と取り違えて追いかけていっているうちに、私たちはそうした快楽にすっかり依存してしまう。いくら得ても、本当の満足感が得られないので、もっともっとと求めることになる。そして、得れば得るほど、ますます生きる意味がわからなくなっていくということになる。


アレクサンドル・ドゥギンは、だからリベラリズムはどんどん急進的になっていくのだと言っている。今やLGBTみたいに男か女かという集合的アイデンティティさえ束縛であると言って、人々にそこから解放されるよう言い聞かせているし、その次にはトランスヒューマニズムみたいに、人間であるということからも自由になるべきだという方向へ行くのだろうと言っていた。まさにリベラリズムは、自己破壊的な方向へ向かっていくのだ。


資本主義は、そうやってリベラリズムとともに、人々を伝統的な共生する生活から引き離して、お金で動く労働者にしていったのだ。しかし、生産性が上がっていくと、労働者層も豊かになっていくので、この支配構造はいつかは崩れることになる。


今、地の時代から風の時代に移って、2000年続いてきた支配と戦いの世界が、多極的な共生の世界へ再び切り換わろうとしているようだ。多極的とは、単に複数の政治権力が対等な協力関係を作って、世界のバランスを保つというようなことだけではなく、上へ上へと目指していくようなこれまでの生き方そのものが、根本的に変わるということなのだと思う。それは、経済繁栄を目指すとか技術開発を進めるとかいうようなことではなくて、自分の足元に意識を向けるようなこと、つまり、自然と共生する至福感を思い出すようなことなのだと思う。


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画像は、ラズベリーの花



    

 

  

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