【クラシック音楽は自由なものだった】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

キセキを紡ぐ Rut of hope

毎日が創作生活
仕事で作ったモノ 趣味で作ったモノ その工程とか
光の粒を食べて生きていけたら素晴らしい

体力バカで猪突猛進中

ね、
眠い

食後からウトウト半分寝ております

ちゅーことで、
チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。
いつもありがとうございます
↓↓↓

【クラシック音楽は自由なものだった】

ドビュッシー自身が演奏しているという録音というのがあるのだけれど、これを聞いていると、クラシック音楽とは本来これほどに自由なものだったのかと驚く。

1913年にピアノロールという自動演奏装置で記録したものを再生したというもので、そんな録音法でどうしてこんなにリアルに再生できるのかわからないのだけれど、しかし私には、これはドビュッシー以外の人が弾いたものだとはとても思えない。ドビュッシーは私もずいぶん弾いたし、いろんな演奏も聞いてきた。だけど、これほど作者の意図に忠実な演奏など、他には絶対になかったと思えるような演奏なのだ。

ドビュッシーの曲には、音が6つ以上もあるような和音がたくさんあるのだけれど、その和音の色彩がどれもぴたりと決まっている。だけどその見事な色合いをした和音を、もったいぶらないで惜しげもなく、キャンバスの上に散りばめるかようにおいていくのだ。こんなさりげなさで弾く演奏など、他にはどこにもない。そしてどの部分も、なるほど作曲者はこう考えて作ったのか、と目からウロコが落ちるように納得できるほど、楽譜にぴったり合っている。

多くの演奏者は、楽譜をそれほど厳密に読んではいない。だけど、一つの音符、一つの楽譜記号だって、作曲者は意味なくつけてはいないのだ。ドビュッシー自身が演奏したというその録音は、すべての音符、すべての記号を作者本人が解説したかのように、見事な整合性を持っている。これは、作曲者本人が演奏したのでなかったら、とてもできるものではないと思う。

ところで、この演奏を聞いていると、まるでサロンでちょっと余興に弾いてみせているかのような気楽さだ。音楽といえば生演奏が普通だったこの時代、クラシック音楽もまたこのような軽さで、家の客間やカフェで演奏され、楽しまれていたのだろうと思う。楽器のうまい人がいて、人が集まると、演奏して楽しむ。ちょっと演奏できる人がどこにでもいて、何かのときに弾いてくれる。そうしたものだったのだろうと思う。それを考えると、この百年の間に、クラシック音楽は一体どうしてこれほどまでに堅苦しいものに変わってしまったのかと驚く。

ピアノの話を書いた投稿に、たくさんの人がコメントしてくれたのだけれど、そのうちかなりの人が、クラシック音楽はつまらない、と書いていた。ピアノを習いに行って、多くの人はバイエルとかチェルニーとかを何年も練習させられて、クラシック音楽というものは面白くもおかしくもないものだと思うようになってしまう。演奏家たちもそんな習い方をした人たちがほとんどだから、やっぱり面白くもおかしくもない演奏をしていて、それを真面目くさって聞くのがクラシック音楽のコンサートだったりする。こんな難しい曲をよくこんな風に弾けるものだと感心はするし、何だか高尚な感じのものではあるけれど、聞いていて楽しいかといったら、正直言って楽しくはない。何だかアクロバットみたいなものを見せられて、すごいすごいと言っているような感じなのだけれど、クラシック音楽は本来そんな風に演奏されて、そんな風に聞かれるものではないと思う。

ドビュッシーがピアノロールで自分の作曲を録音した1913年、そのあとに世界では第一次世界大戦が起こり、金融恐慌が起こり、世界は徐々に少数の金融エリートたちに支配されていった。彼らは、人々の意識が目覚めないように、文化芸術も破壊しようとしていたというのだ。とりわけ彼らが恐れたのは、19世紀終わりまでにすばらしい発展を遂げていたドイツロマン派の音楽だったという。

精霊や神々の世界がリアルに感じられるようなドイツロマンの音楽は、たしかに人々の意識を多次元的な世界に開いてしまう力を持っていると思う。そうした世界と意識の繋がりを持っている人たちを、支配することはできない。だから、この音楽をつぶしてしまわなければいけないと思ったのは、わかるような気がする。

その頃から、クラシック音楽は、かつての美しさを失っていった。精霊や神々の世界をリアルに感じるようなドイツロマン派の濃厚な色合いは失われ、無調の「現代音楽」なるものに入れ替わっていく。それは無機的で人工的な冷たさを感じるような音楽で、聞いていると身体が緊張してくる。音楽は、精霊や天使たちに出会わせ、自然や人々との繋がりを感じさせるようなものではなくなり、何やらよくわからないものになっていく。

それと同時に、クラシック音楽業界も、ハザールマフィアに取り込まれていって、彼らの息のかかった演奏家が世界的なスターに仕立て上げられていくようになった。音楽の才能のある子供たちは、そういうところと繋がっている先生にレッスンを受けて、繋がりを作ることで、売り出してもらうようになった。それで、親たちは1時間何万円もするようなレッスンに子供を通わせるために、ものすごい出費をしていたりする。クラシック音楽教育は、ものすごいお金の動く世界なのだ。そういう高額のレッスンを受けて、いい演奏ができるようになると信じている人が多いけれど、実はそうではない。そういう先生のクラスに入れてもらうには、それなりに演奏がうまくないと入れないので、もともとできる人たちなのだ。それで、レッスンで何をやっているのかといったら、見ばえがするようなしぐさとか、派手な音の出し方とかを、先生が指示する通りにやらされているだけだったりする。

つまり、本当には音楽がわかっていない人たちが、これは何だかすごいものだと思い込むような弾き方を仕込んでいるのだ。クラシック音楽のスターとして、引き立てられていく演奏家たちは、ほとんどがこうした具合に作られていっている。その結果、いかにももっともらしくはあるのだけれど、本当の中身はないような演奏が、世界一すばらしいものなのだという風に皆が思い込むようになっていってしまったのだ。

オーストリアは、クラシック音楽以前にかなり高度な音楽の伝統があり、どこの田舎に行っても、見事な演奏をする民俗音楽の演奏家たちがいる。彼らは音楽教育なんか受けていない、ただ地元の誰かに習ったような人たちで、ごく普通の農家の人たちだ。こういう人たちが、当たり前のように多声で歌えたりするのだ。あれを見ていると、音楽というのは特別な教育を受けた人だけができる特別なものだというのは作られた印象にすぎなくて、もともと誰でも育った土地の音楽が身体の中に入っているものなんじゃないかと思う。ドイツロマン派までの音楽は、そうした音楽がプロの仕事として形になっていったようなものだったのだろう。だから、クラシック音楽といってかしこまったようなものではなくて、もともとは普通の人が普通に楽しめるようなものだったのだと思う。

それがこの100年ほどで、クラシック音楽はショービジネスとして特別なものになり、アクロバットみたいに特別な修行をした人だけができるようなものになっていったのだ。プロのソリストになろうと思ったら、不可能と思われるような努力をしなければならないというイメージができていく。しかし、不可能な努力をしなければいけないという状況を作るのは、実は人を洗脳操作するときに使う手なのだ。そういう状況下で、怒られたり怒鳴られたり、貶められたりしていると、人は自分の感覚や意志を失ってしまい、ただ人の言うなりになるような人格ができていく。クラシック音楽のスターと言われるような人たちは、実はこのような状態になっている人が多かったりする。こういう演奏家たちは、歳を取るごとに演奏が熟していかないで、見かけだけなのがボロが出てくる感じの演奏になっていったりする。だけど、聞いている方も、クラシック音楽というのは、素人にはわからない何か高尚なものなのだと思っているから、有名な演奏家なのだから、いい演奏なはずだと思い込んでいたりする。

かくして、音楽教育とショービジネスでものすごいお金を独占すると同時に、見事にクラシック音楽の魂を抜き取ってしまったのだ。今、多くの人たちがクラシック音楽はつまらない、と言うのは、そのようにして作られた状況だった。

一極支配から多極的な世界に変化していくにつれ、こうしたクラシック音楽のあり方も変わっていくのかもしれない。有名なコンサートホールなどで演奏している世界的なスターなんかよりも、実は田舎の楽譜も読めない音楽家たちの方が、魂のある演奏をしたりする。独占されてきたショービジネスが解放されたら、本当にいい演奏があるいは表に出てくるのかもしれないし、そうやってクラシック音楽は息を吹き返していくのかもしれない。

クラシック音楽は、もともとは即興的な要素もあったし、自由で自在なものだった。あの立体的な多声構造にしても、ハーモニーの純粋さにしても、他の音楽には決してないような大きな可能性がある世界だ。まさにそうしたものこそが、人々の意識を目覚めさせてしまうと恐れられ、つぶされていったのだ。そして、たまたま今、私がこんな文章を書く気になったのも、あるいは本当のクラシック音楽の世界が目覚める時が来ているからなのかもしれないと思う。

***



ドビュッシー自身が演奏した「ゴリヴォークのケークウォーク」(子供の領分)