【陰の力の封じ込めを解く】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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今は働いてないとナマケモノみたいに言われたり、劣等感を感じたりするかもしれないけれど、
私の若い頃(年寄り臭い、、)は、卒業して就職しない女性はたくさんいて、家事手伝いとか花嫁修業とか言っていたよ。
就職しても二〜三年とか多かった。
いつから共働きが普通になったんだろう。
私の頃は結婚したらほぼ専業主婦になっていたんだけどな。
そんだけ国が家庭を貧しくしてしまったんだろうな。
上手いこと騙してるってことだな←褒めてない。


ちゅーことで、
チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。
いつもありがとうございます。
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【陰の力の封じ込めを解く】

宮島の封印を解いたら、大きな女性性のエネルギーが解放されたようだ。そのことと関係があるのか、これまで一体どんな力がすべて封じ込められてきたのかが見えてきた。

女性性のエネルギーといったとき、それは陽に対する陰、火に対する水の要素、といったことを言っている。昼が陽で夜が陰、活動が陽で休息が陰だ。そういう陰のエネルギーのことだ。

現代社会に生きる私たちは、活動することばかりが価値のあることだと思い込んでいて、何もしないことの価値を知らないことが多い。
自分の意志を実現することばかりが意味のあることなのだと思っていて、意志を曲げて譲ることの意味を知らないことが多い。
獲得することばかりが豊かなことだと思い込んでいて、手放すことの豊かさを知らないことが多い。

まさにそのために、現代社会は物はあふれていても豊かさがなく、つねに欠乏感を感じ続けているようなことになっているのだと思う。

息を吸うのは陽で、息を吐くのは陰だ。息を吸うときには、筋肉が収縮して胸を開かせる。その筋肉を緩めると息が吐ける。息を吸おう吸おうとばかりしていると、息が吐けなくて呼吸困難を起こしたりする。吸えないという恐怖が、ますます息ができなくしてしまう。現代の私たちはそのように、つねに何かが足りなくなるのではないかという恐怖に取り憑かれて、息を吸おうとばかりして、呼吸困難に陥っているようなものかもしれない。

宮島の封印を解いて大きな女性性のエネルギーを解放したとき、そうした陰の力を私たちがこれまでどれだけ蔑ろにしてきたかということを、ヒリヒリするような痛みとともに感じた。私たちは活動することばかり考えて、活動し続けないと自分が怠け者であるかのように感じている。しかし、活動しないで休んでいるとき、私たちはもっと大きな意識体になって宇宙意識に開かれている。そうしたプロセスを通して、私たちは自分がやろうとしていることが本当にいいことなのかどうか、もっとよくやるにはどうしたらいいかといったことを思いつくのだ。

休んでいるとき、何もしないとき、身体の細胞が緩んで、その瞬間からどんな傷も癒されていく。それはまるで、復元能力のあるものが、加えられた力を緩められたときに、とたんに元通りの形に戻っていこうとするようなものだ。そのように、私たち生き物の身体は、つねに元通りの健康な状態に戻ろうとする。私たちの身体の細胞は、そうしたすばらしい復元能力を持っているのだ。そして、その力が働くのは、私たちが何もしないでいるとき、身体の筋肉を緩めているときだ。

私たちは計画通りにことを進めようとして、あれこれのことを考慮して、手を回す。計画通りに進むのが成功だとばかり私たちは思っているのだけれど、それでもどうしても思ったようにいかないことがある。そうしたとき、計画が失敗に終わるんじゃないかと思って恐くなるのだけれど、まさにそのときに、私たちが頭で考えた以上の可能性が差し出されていることがある。

計画通りにやろうとして努力するのは私たちの陽の力だけれど、うまくいかないときに諦めて、受け入れるのが陰の力だ。諦めて受け入れたとき、実は私たちは無限の可能性に開かれる。計画したことは、しょせんは私たちが三次元的な計算で考え出したことにすぎない。だけど、うまくいかなくて諦めたとき、私たちの意識の中で多次元的な力が働き始めるのだ。これは、何かを手放す経験をした人なら、誰でも知っていることだと思う。諦めて受け入れた瞬間から、思わぬ出会いがあったり、思いもしなかったチャンスが差し出されたり、それまでは思いつかなかったすばらしいアイディアが浮かんできたりする。

状況を思い通りにしようとしているとき、私たちの意識はその一点だけに向いている。だけど、そこに意識を向けるのをやめて力を抜いた瞬間、陰の力が働き始めるのだ。それは、息を吸おう吸おうと思っているとなかなか吸えないのに、大きく息を吐いたら、自然に息が身体に入ってくるのとも似ている。諦めて、もうどうにでもなれ、と思うとき、私たちはすべてを失ってしまうように思うけれど、実はその瞬間、宇宙が差し出すすべての可能性に意識を開くのだ。

私たちはこれまで、この陰の力の大きさを知らなかったのではないか。何もしないこと、休むこと、諦めることは、仕方がないからやること、あるいは怠け者だからやることみたいに思いすぎていたのではないか。陰の力は、実はこれほどに大きなものだったのに?

この頃は、何も考えないでいる時間が長いほど、学習効果が高いということも知られるようになってきた。何か考えているとき、何かを読んだり計算したりしているとき、私たちの脳はある一部分だけが動いているけれど、何も考えていないとき、脳の全体が動いているのだそうだ。考えるというのは、私たちの意識の中のごく一部である顕在意識を働かせることにすぎない。ところが、何も考えていないとき、私たちは大きな無意識の領域のすべてを働かせている。

子供も、思い通りにしようとして大人があれこれと世話を焼くより、放っておいて好きにさせておいた方が、よく育つものらしい。思い通りにしようとすることを放棄したとき、私たちは子供の本当の力を信頼するのだ。それと同様に、あきらめて力を抜いたとき、私たちは自分の身体の本当の力を信頼し、この世界のすべての可能性を信頼する。そして、それは私たちが頭で考えたよりも、はるかに大きなものだったことを知るのだ。

この陰の力、宮島のエネルギーを解放したときに出てきた女性性の力は、単に癒しの力、浄化の力といったものではなかった。宇宙のすべての可能性に開かれるような、とてつもなく大きな力だった。それが宇宙を浮遊するように舞い歌う宇宙の女神のような姿で現れたのかもしれない。宇宙のあらゆる力を知り、それを受け取って表現するのが、古来から巫女性として知られているもにだけれど、陰の力、女性性の力は、そういう宇宙的なスケールを実は持っていたのだ。