【大きくなるには緩めばいいという真実】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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相変わらずグダグダな今日このごろ、
あ、
グダグダなのは私じゃなくてまわりなんだけど、
まわりがグダグダなのは、そこにそうなると言うか、それを見せられる原因を私が持っているとゆーこと?
(´-﹏-`;)


ハニーさんみたいにドーンと俯瞰で見てみようかな。
そしたら見えてくるものが変わるかもね。


ちゅーことで、
チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。
いつもありがとうございます。


【大きくなるには緩めばいいという真実】

宮島についての投稿で、「神々のように大きくなる」ということを書いたのだけれど、多くの人はそれがとても難しいこと、普通の人にはなかなかできないことのように感じたようだ。大きくなる、神々のような意識を持つ、ということをいうと、小さい自分が大きく成長しなければいけないというように思えるし、それにはずいぶん努力しなければいけないのだろうと思えるのだと思う。

だけど、実際に起こることは、まったく逆のことだ。努力するのをやめて、自分のありのままを許すと、まさにその瞬間に私たちは大きくなるのだ。これはやってみるとわかるし、私はセミナーでもいつも経験している。

思うに、私たちはもともと神のように大きな存在なのだと思う。それがありとある義務やら責任やら禁止事項やら目標やらで、小さく押し込められているのだ。子供の頃から親や先生に怒られたり暴力をふるわれたり、自分は小さくて何もできないのだと思い込まされ、こうでなければいけない、これができなくては、と言われて、自分を小さく押し込めることにものすごい力を使っていたのだと思う。

だから、努力すればするほど、ことはうまくいかなくなり、自分はダメだという劣等感が募り、ますます縮こまってしまうようなことになっていたりする。

私たちは本当は神のように大きな存在なのに、それをものすごい力で小さく押し込めてあったのだ。だから、小さく押し込めている禁止事項や思い込みを一つずつ外していくと、まるで風船が一気にふくらむように、とつぜんものすごいパワーが出てきたりする。そんな責任は負う必要がない、そんな禁止事項は破っても大丈夫だ、ということが納得できると、私たちはどんどん大きくなっていく。

実際、私たちはありとある禁止事項やら義務やら理想やらに自分をはめ込もうとして、ガチガチに緊張している。そして、絶えず自分はこれができないからダメだ、これをしてしまったらから悪い人間なのだ、と自分を責めながら生きている。ところで、意識の領域では、自分がこうだと思っていることが現実化してしまうのだ。それで実際にも悪いことをしてしまったり、あれこれができなかったりする。三次元の領域で見たら、そんなわけはないだろうと思えるのだけれど、意識の領域が見えてくると、現実に起こっていることと意識の中にあることとは、本当にピタリと一致していることがわかる。

般若心経に有名な「色即是空 空即是色」という言葉があるけれど、現実もまったくあのままなのだ。色(現象世界)はそのまま空(意識世界)であり、空(意識世界)はそのまま色(現象世界)である、ということ。般若心経では、その原理がわかったら、すべての現実の苦しみから解放される、と言っているわけなのだけれど、それはまさに、それまで自分が思い込んできて、自分をはめ込もうとしていた禁止事項や義務や理想やらが、実のところ自分を縛っていたということに気づくからなのだ。すると、私たちは空の境地にいたる。つまり、自分自身の意識体の本当の大きさを知って、神々と同じ大きさになるのだ。

たとえば、いつも上司に理不尽な責められ方をする、と嘆いている人は、まず子供時代にも親に同じような理不尽な責められ方をした経験がある。それで、「自分はいつも理不尽な責められ方をする」という思い込みが作られてしまうので、いつも同じ状況を引きつけることになる。

この場合、親や上司を理解しようとしたり、許そうとしたりしても、実はあまり効果はない。何故なら、結局のところ「自分はいつも理不尽な責められ方をする」ということを認めることにしかなっていないからだ。多くの場合、理不尽な責められ方をした上に、それを受け入れて許さなければならない、というますます理不尽な設定を自分に強いることになっていたりする。こうなると、ますます自分を締めつけることになり、自分を小さくすることになってしまう。自分に与えるものは同時に人に与えるものでもあるので、無自覚に人を締めつけるようなことになっていたりする。

そうではなく、自分を締めつけているものを外して、緩む方向に持っていけばいいのだ。身体を緩めて、理不尽な責められ方をしている自分を思い出したら、悲しさとか怒りの感情が湧き上がってくると思う。そんな風に言われたら悲しい、腹が立つ、という思いが湧き上がってくるだろう。その感情は、ありのままの自分を愛する力に他ならない。悲しみや怒りの感情は、私たちが地上に生まれてきたときに、自分を守っていけるように、自分を幸せにしていけるようにと、与えられた力なのだ。

しかし、そうした力は、支配者によって真っ先に封じ込められている。支配とは、人々から自分を守る天与の力を奪うことから始まるのだ。そのために、あらゆる残虐なことが行われてきた。私たちの中には、そうした残虐な歴史もまた、無意識の中に入っている。

封じ込められてきた力、自分を守る力、悲しみや怒りの感情を、まずは自分に許すこと。それは抑えつけていたものを緩めるようなことだ。すると、ものすごく大きな愛の力が自分の中にあったことに気づく。そして、その愛の力によって、自分を守る力があるということも。

その大きな愛の力を自分に許したとき、自分を守るために戦う必要もなく、相手と和解することができる状況ができたりするのだ。これもまた、自分に与えるものは人に与えるものでもあるというあの原理から来ている。理不尽な責め方をしたりする上司は、だいたいやはり同じように禁止事項やら強制やらにガチガチに縛られている。そのいら立ちで、人を責めているというのが、実情だったりする。そうした強制から自分を守ると決めると、奇妙な具合に相手もまたその強制から解放することになっている。これは理屈では理解しがたいかもしれないけれど、やってみればわかる。そのとき、自分がその相手と共に、そのゲームを演じていたのにすぎなかったことがわかる。

相手に何かを強制するのは、大きな力がいるけれど、相手を何かから解放して緩めるのは、よほど簡単で、しかも効果が大きいのだ。それは、風船を押し込めてあった箱から外に出すようなものだから。

奇妙なパンデミックが始まってからの3年ほど、私たちは実に理不尽なことを強要され続けてきたのだけれど、それだからこそ、これまで理不尽にも自分で自分を縛っていた強制から自分を解放していくこともできたのかもしれない。よく臨死体験をした人は、その体験を通して解放されてしまったりするけれど、それは、もう死ぬとなったら、それまでずっとこうでなければと自分を縛っていたものが、実は何の意味もなかったことに気づいてしまうからなのだろう。

私たちが自分で自分を縛っている理想や強制など、実のところは、そうしなければ生きていけなくなるのではないかという恐れから来ている。それが、いよいよ死ぬとなったら、何も恐れる必要などなかったということに気づいてしまうのだ。つまるところ、人間は必ずいつか死ぬし、死ぬまでは生きているということは確かなのだから。それならば、どうして生きている間、そんなことで自分を縛って窮屈な思いをしていることがあるのだろう? 

実際に生死の間をさまようような体験をする必要もなく、私たちは同様な体験をすることができる。この奇妙なパンデミックは、集団的な擬似臨死体験だったと言えるかもしれない。ウィルスに感染して死ぬかもしれないと思ったり、あるいは薬で死ぬかもしれないとか、全体主義的な政府に殺されるかもしれないとか真剣に思ったし、少なくともこれまでのような生活を続けていけなくなるとは思った。そうなったとき私たちは、こうじゃないと生きていけなくなるからと自分を縛っていたものに気づいて、それならば死ぬまで自分に正直に生きていようと思うのだ。

ところが、自分を縛っていたものから自分を解放してしまうと、同時に死ぬ必要もなくなってしまう。それで、私たちは生き返ることになる。それは、「こうじゃなきゃ生きていけなくなる」という設定が消えてしまうからだ。だから、生きていけなくなる状況を自分で作り出さなくなってしまうからなのだと思う。

今、世界は大きく変わり、人類は生まれ変わろうとしているようだ。だから私たちは、「こうじゃなきゃ生きていけなくなる」というこれまでの設定から自分を解放する長いプロセスを生きているのだと思う。
この3年ほど、まるで次元ジャンプにつぐ次元ジャンプをさせられ続けている感じなのだけれど、それはつねに緩んで大きくなっていく方向へだ。
本当に、そうじゃないと生きていけなくなるような状況に追い詰められながら、私たちはどんどん大きくなっていっているようだ。