R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その33) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その33)

 

Ⅲ 中世ヨーロッパの再編

 

10 封建的ヨーロッパ世界

 

封建貴族の生活(のつづき)

 ウィリアムは金持になった。彼は並外れた競技能力・強靭さ・技術をもつ男であった。そして、彼は確固たる評判と収入によって混戦に次ぐ混戦状態から抜けだした。そのさまは成功に対して払われた代償は体罰であった。ある馬上試合ののち、ウィリアムは鍛冶工場の宿所で鉱床の上に自分の頭を乗せているのに気づいた。彼の鉄兜はひどく打ち潰れてしまったため、彼はそれを外すことができなかったのだ。彼の成功の結果としてウィリアムはヘンリー二世の長男であり相続人のイングランドの若年王ヘンリーの騎士側近者として永年の一員となり、遂にその若年王の騎士道の良き指導者という地位に就いた。ヘンリーが1181年に騎士爵を授けられたとき、ウィリアムは彼に騎士爵を授けるという栄誉をもった。

 この栄誉は確固としたものであったものの、その価値は制限されていた。ウィリアムは依然として土地をもたない騎士であり、借地をもつ女相続人を嫁がせることに導くかもしれなかったが、もちろんヘンリーがこのようなことをするためには王位継承をしなければならなかった。だが、ヘンリーは1183年に死去した。ウィリアムはこうして騎士爵を授けて以来15年間はほとんど昇進しなかった。彼は戦士として成功した徳によって金持ではあったけれども、安定した収入をもたないまま徒に年齢を重ねていった。彼の主人の死後、ウィリアムは十字軍戦士として聖地に赴いた。なぜなら、彼は若いヘンリーとそうすることを誓ったからであり、今や彼自身を死去した主人の義務を果たすことを願ったからである。彼が1185年にフランスに戻ったとき、彼の能力と忠誠に対する評判を耳にしたヘンリー二世はウィリアム側近の列に加えるよう決意した。もちろん、同王は彼の息子がしたように馬上試合を巡回するようなことはしなかった。そして、ウィリアムの新たな地位のせいで、ヘンリーの広大な王国を管理するという重要な仕事を受け持った。ヘンリーは幾らかの領地をもつ若い女相続人の後見職をウィリアムに当てがうことにより彼の奉仕への報酬とした。こうしてウィリアムは彼の人生で初めて領地保有からの収入を得た。彼は40代後半だった。ヘンリー二世に彼の残りの息子たち ― リチャード・ジョフレーとジョン ― と内輪もめをしているとき、ウィリアムは忠実にヘンリーを支援した。そして、彼の生涯の終りにその歳老いた王は彼に対し、ペンブロークに伯爵領をもつイングランドの大家臣のうちの一人の女相続人との結婚を約束した。しかし、ヘンリーはその約束を果たすことなく1189年に他界し、ウィリアムは再び忘恩の淵に立たされることになった。しかしながら、彼の以前の敵だったリチャードは彼の価値を認め、ヘンリー二世が約束したものをウィリアムに与えた。1190年にウィリアム・マーシャル ― 彼は兄弟よりも長生きしたことにより父の称号を継承した ― はペンブローク伯爵となり、ウェールズの辺境防禦の任を負うイングランドの最も力のある領主の一人となった。ウィリアムの晩年の経歴は次の章でふれることになろう。彼はイングランドの政治に熱意をもって30年間を費やしたのち、1219年に他界した。

 ウィリアムの生涯は風変りではあるが、それは封建世界ではごくふつうのタイプであったと推定される。その世界では或る者は富と地域を相続し、また或る者は自分の長所によって富や地位を勝ち取った。ウィリアム・マーシャルのように高位身分にあり着いた騎士修行者はほとんどいなかった。しかし、多くの者は偉大な主人の好意によって領地を有する階層の地位を得た。騎士修行者の生涯の長さを算定するのは難しい。しかし、彼らはおそらく15~20年間、模擬戦争と実戦に参加することができたのであろう。ウィリアム・マーシャルは彼の晩年も戦いつづけ、明らかに体調と健康を維持したが、彼は前線兵士としてよりも将官としての役割を演じた。それらの名もない人々は地位にありつけないまま資料から姿を消していく。おそらくは財産管理者あるいは裕福な農夫となったことであろう。

 私的闘争のために徹底的に訓練された騎士は後援を受けない騎兵隊として、あるいは歩兵隊や射手隊の後援部隊を伴う軍事移動と結びつく騎兵隊として軍事的な機動力を成した。1066年のヘースチングスの戦いでノルマン人騎士は新手の援護射撃と協力して攻撃を敢行した。その戦いの絶頂期にはその騎士隊は十分な訓練を受けており、退却を装ったり奇襲反撃をおこなったりしてノルマン軍が有利となるべく形勢挽回することができるほどになった。しかし、トルコの卓越した戦略能力と対決したときの聖地遠征の十字軍はしばしば多数の死傷者を出してさんざん苦しめられた。じっさい、一対一の場合は騎士が最も強かった。一人の騎士が集団で別の敵を攻撃して、馬・人・戦車が激しく衝突した結果、速やかに多数の個人戦 ― 依然として騎乗している者もいれば、徒歩の者もいるのだが ― へと縺れ込むこともあった。接近戦では歩兵は深刻に不利であり、それで中世の戦争における戦術の開発は騎士よりもむしろ歩兵との連携をもっておこなわれた。広い戦場で騎士と会戦せざるをえないとき、歩兵は戦場の防禦物、奇襲部隊、戦略と進撃、潜伏、小集団を組んでの戦いといったありとあらゆる可能性を利用することによってのみ生き残ることができた。

 軍隊指揮官は軍事行動を計画することの必要性を理解してはいたが、現代の基準からみれば彼らの戦略的把握は甚だ不十分なものであった。彼らは自軍が通過する国で寄食するため、供給問題にはほとんど注意をはらわなかった。これは焦土化政策が結果的に大規模侵略をしばしば頓挫に導くことを意味した。軍隊はしばしば敵の兵力、配置、不確実な意図に関する不十分な情報しかもたない戦闘に身を委ねることになった。西ヨーロッパにおいてはこれらの欠陥を敵・味方双方とも共有しており、その結果は致命的なものとはならなかったが、イタリアと聖地でイスラム教徒と対戦した際は壊滅的になることがあった。

 歴史記録者はイングランドの王ジョン(1199~1216)は彼がそれを必要としたか否かに関係なしに一年に一度入浴したと報告している。記録者は感嘆して述べており、そして、彼の陳述は人間、中世に生きた社会、経済、政治規模のトップに立つようなそのような人間でさえ現代のお定まりの型に当てはまるのかもしれない。しかしながら、それはまったくまちがっている。近代以前の時代を通して公衆衛生と清潔は住民全体にはさほど大きく関わっておらず、しかし、少なくとも中世においては清潔を保つ必要性についてある程度の自覚はあった。中世貴族はふつう食前・食後に手を洗ったし、史料文献によれば、騎士は鎧を脱いだあと錆や汚れを洗い落したことが語られている。入浴は一般的ではなかったが、上流階級の一部であり、写本装飾家が自分らの主題を日常の生活の場に発見したとき、原稿の装飾、特に中世後期のそれらの中に描かれている。暖かい月には水泳が外皮を取り除く助けとなった。そして、ドイツでは暖春のご利益をたくさん享受できた。アーヘンの春とはこのようなものであり、シャルルマーニュの廷臣は水浴をよく利用した。それにもかかわらず、中世の個人は衛生方法の欠如との関わりから、ふつう皮膚疾患に悩んでいた。人々が清潔を維持しなかったとい理由だけではなく、彼らが近接しながら住んでいた理由からも、伝染病の疾患率は高かった。支配者の家族にせよ農民家族にせよ、プライバシーはほとんどまったく配慮されなかった。封建貴族の邸宅では支配者家族、召使、従者とその他の者は少ない部屋で生活し睡眠をとった。大領主のみが領主と婦人が個人的な部屋を占有できる家屋をもっていたが、その場合でさえも他の者はいっしょに生活した。家屋はじっさい暖かくなく、換気が悪く、雨漏りして汚いものであった。それは小屋やあばら家で生活し、飲食物も暖をとるための上着も貴族よりも遥かに乏しい農民ほどではないにしても、困難な生活であった。

 何らかの手段で11世紀の封建領主の城に運び入れられたとき、20世紀のアメリカ人が見受けるであろう最も際立った印象は、彼らがある意味で11世紀の条件下で運び戻したこと、そして、それは彼らの臭覚にショックを感じたであろう。そのような訪問客は腐った食物の臭い、不衛生で黴の生えた着物、駄目になった歯、臭い息にいたる場所で出くわしたであろう。しかし、中世貴族は農民の物質生活よりずっとよい生活を享受していた。最も明瞭な違いは、農民が文字どおり日常生活を共有していた動物とはほとんど同じレベルにまで落されたという点にある。冬になると、彼らの小屋の中の動物たちは農民を暖かくしておくことを扶けた。動物から離れて住んでいた貴族たちは冬季は毛皮に包まれていた。北欧の幾つかの地方では毛皮を着ていることは腕の紋章と同じように貴族の区別の印だった。

 城内の平和時の生活の退屈と束縛からの転換は主に格闘の経験と楽しみの幾らかを与える活動から成り立っていた。馬上試合などが述べられてきた。

 狩猟は馬上試合よりレジャー活動の現代の概念に近かった。狩猟者たちは森の中で2、3日過ごしたが、彼らは家の近くでの仕事よりもむしろ運動を捜し求めることを考えた。それでもやはり、大きな動物を狩猟するのは極めて危険を伴った。猪に追い詰められたとき、もし正確な一撃で倒さなければ、猪の牙は脚の悪い傷のために永久に彼を役立たずにするかもしれないほどのスピードと力で邪魔者を突撃するだろう。猪や熊や狼を殺すのは森から危険な動物を追い払うという実際の目的に適っていた。石などで鹿狩りすると、領主のテ-ブルに時には役立つ痩せた牛肉や堅い羊肉よりも遥かに味のよい鹿肉が並んだ。だが、狩猟は領主とその妻の双方に人気のある技芸であった。空中で猟鳥を殺し、その主人あるいは女主人の処に獲物を持ってくるよう訓練された犬が飼われていた。大領主のほとんどは彼らの森を巡回し、侵入や密猟に対して地方的慣例を実施する専門の狩猟場番人あるいは猟師または番人を雇い入れた。それゆえ、彼自身の狩猟や消費のために領主の狩りが禁止されることもありえた。11、12世紀の貴族たちは教会詣でよりも狩りに情熱を傾けたかどで非難された。神父さえも、狩りを神への奉仕から外された危険な娯楽と思っている聖職者や気高い人たちの無念さをものともせず、豪華な環境に育ちつつ狩りを楽しんだ。

 城の生活はたとえば領主の歳老いた娘の結婚式あるいは歳老いた息子が騎士爵を授かるといった稀な盛儀を除いてほとんど室内娯楽を提供しなかった。そんなとき、多くの客を招待して彼らを宴会で楽しませることが求められた。そこでは食物や飲物において量が質に勝っていた。お祭り騒ぎは一週間あるいはそれ以上にも延長された。天候不順の間や暗くなったあと、貴族は何もすることがなかった。世俗貴族のほとんどが読み書きできなかったが、彼らは吟遊詩人や放浪楽人によって語られる物語を聴いて楽しんだ。シャルルマーニュは古い話や伝説の蒐集を命じた。娯楽のもうひとつの形は城から城へと吟遊詩人にしばしば同伴し、そこで手品や宙返りの見世物にして芝居をする芸人によって与えられた。これらの芸人や他の旅人は外の世界の絆でニュースや世間話の提供者であるため、城に滞在するのをいつも歓迎された。彼らがいなかったら、封建貴族の日常生活はいっそう孤立させられたであろう。というのは、領主の城はしばしば最も近くの他の城から何マイルも離れていたし、城が村落共同体の中間に位置していたにもかかわらず、農民の村落共同体の活動に参加しなかったからである。さらにチェスのような幾つか室内ゲームに人気があった。これらのゲームの多くは金を賭けておこなわれた。そして、12世紀にはほとんどの者がチェスを博打と見なした。イングランドのヘンリー二世がトマスベケットを1162年にカンタベリー大司教に選んだとき、候補者のライバルがとりわけ彼が学生時分にチェスをしたことを主張した。

 前の叙述は封建制度の叙述と同じく、必然的に概要であるにすぎない。というのは、生活習慣の貴族階級の財源が大いに異なっていたからである。封建階級の最下級の騎士は城をもっておらず、推定されるよりも幾らか良好な生活水準にあったであろう大貴族の館に住んでいた。この騎士の上に僅か1マナーか、2マナーの封土しか授けられていない小貴族がいた。そのような貴族は簡単な木柵で囲まれた小領主の邸宅とほとんど同じ要塞邸宅に住んでいた。幾つかの領地の所有者である家臣は領地から領地へ移動することに多くの時間を費やした。なぜというに、彼の家族にとって領地の再産物を中心地に運搬するよりは供給源へ移動することのほうが容易だったからである。これらの領地の一つは領主の主要邸宅であり、彼はそこで封建裁判をおこなった。それは領主の財源が許す範囲で防御工事が施されたが、それは通常、小森林という外壁をもつ城の形をとった。最も身分の高い封建貴族(国王・公爵・伯爵・男爵)は1200から数百か所までのマナーから成る広範囲にわたる封土を所有していた。そのような上級貴族は彼の男爵領の経営のために戦略的に置かれた数個あるいはそれ以上の城をもっていたものと思われる。城は、そこで領主のために裁判をおこない、彼の収入を貯えた役人の邸宅というよりむしろ(そこを時おり訪れたであろうが)領主の邸宅であった。

 封建貴族階級間の生活様式はあらゆる地域に変化を与えただけでなく、常に変化していた。経済変動は小作人よりも領主に影響を及ぼした。というのは、貴族は共同体の流動資産を管理し消費していたからである。物価上昇期に彼らの収入は主に地代に基礎を置いており、慣習によって定められ、また、物価指数は変化しなかった。さらに、12世紀の文芸復興は ― 後章で熟考するが ― 封建世界を方向づけ、変形させたように、文学の新たの形態を創ることによって封建世界の生活水準や価値基準を反映する貴族に影響を及ぼした。