R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その32) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

R.S. ホイト &  S. チョドロフ共著『中世ヨーロッパ』(その32)

 

Ⅲ 中世ヨーロッパの再編

 

10 封建的ヨーロッパ世界

 

封建貴族の生活

 10世紀に封建貴族に出世したのちの騎士はほとんどの地方共同体の経済水準よりも遥かに向上したというわけでなく、むしろ支出源のかなりの部分をその共同体に頼っていた。彼らは隣家よりも大きな木造家屋に住み、おそらくは土木作業を通じて防御工事に携わったであろうが、富裕農民と較べそれほど楽な生活をしていたのでもなかった。下級貴族はその名声ゆえに家と食糧を平民と共有した。つまり、その名声の代償は召使、家来、そして友人から成るひとつの大家族であった。飢饉の際には主君を含め、すべての者が窮乏した。

 城の大きさ・形・構造は主君の財源と当該地域のもつ有益性または可能性しだいで変化した。およそ950年頃から1150年までの時期の城はほんの一部ではあるが、中世を取り扱う最近のほとんどの歴史小説に記述されている。また、ほとんど全部の中世を取り扱った映画に見られるような小塔や機械からくりを完備するがっしりした石造建造物に似ている。しかし、封建城郭はそのほとんどが石造と思われがちだが、通常はその全部は土造または木造であった。

 一般的配置や設計の類似性からそれらの要塞は「土塁(土丘の意)と内庭を組み合わせた城」と呼ばれた。土塁は木柵に囲まれた大きな小丘(広さは1~6エーカー)である。内庭はこれも木柵に囲まれていた。広さは土塁よりも大きな隣接した中庭または空き地に等しかった。地形に依存し、土塁または内庭もしくは両方とも溝に取り囲まれていた。これを濠といい、それはちょうど柵の外側に造られていた。もし城郭の所在地が川べりにあるならば、城はいつも水を満たせる川に繋がっていて、攻撃してくる敵勢力の侵入をそれでもって防ぐことができた。土地がかなり平らなところでは、土塁は濠を掘った際の濠土を使って造成された。しかし、ふつうは窪地や川の曲がったところの土手のような地面の盛り上がりや自然の地形を利用することができた。そのため、人手が少なくても高所に土塁を造ることができた。防御工事を施した場所の水源は不可欠であり、城郭はしばしば川の近くに、または湧き水が豊富であるか、あるいは井戸の掘れる丘陵地に建造された。

 土塁の中央には全城郭を睥睨できるいちばん大きな建造物がつくられた。この木造の建造物はドンジョンまたはキープ(いずれも日本の近世城の天守閣に相当)と呼ばれた。そして食糧と貯蔵物の貯蔵室はその塔の一階に、またはしばしば地下室にあった。この階に侵入する術としての厚壁や窓と入口がなかった。最近の土牢が暗く地下にある牢獄という概念は、囚人をドンジョンの地下の一室に監禁しておく中世の慣習に由来する。入口は、小さなドアにつづく細くて急勾配でかつ簡素に防備された通路を経て二階から塔に入るところにあった。攻撃を受けた場合、防御者は容易くこの通路を破壊しドアを封鎖できた。塔屋に設けられた他の穴は矢を射るための突きだし狭間に較べ、それを上まわることはめったになかった。大きな塔では二つの階を独占したであろう君主の大広間と居間はこの階の内部にあった。胸壁はそこから防御者が石や沸騰したタールやピッチ(石油、コールタールなどを蒸留した後に残る黒色の滓)、丸太、その他の飛び道具を投げつけ、相手の攻撃の突進を防いだ。

 最も大きな城を除けば、塔は叢林を囲む柵の内側にある唯一の建造物であった。城壁は城における一般生活に必要な建物、つまり守備隊のための兵舎、食糧と日用品のための倉庫、馬小屋、鍛冶工場とその他の工作場、そして通常は隣接村のための教区教会としての機能をもつ礼拝堂あるいは教会堂を含んでいた。城は領主の安全のために要塞化され、単なる住居以上の機能をもっていた。それはまた、地域全体を防衛するために貢献した。侵略の懼れが生じたとき、村民と付近の地域から来た人々は城内の避難所に家畜を追いたて、動産を運んで城に避難した。おそらく城壁の長い壁には、そのために軍組織に編入された小作農たちが兵として配置されたであろう。

 11、12世紀に軍事行動の多くは攻城戦の単調な仕事から成っていた。ちょうどヘースチングスの戦い(1066年)やレニャーノの戦い(1170年)のような多数の騎馬を含む正々堂々の戦闘は極めて稀であった。しかしながら、それらが起きたとき、それらはしばしば重大な結果を招くことになった。通常の戦闘はもっと小規模なもので、主として敵城を攻撃することから成っていた。領土は、それを支配し守る城が奪取されて初めて征服された。莫大な犠牲者を進んで容認するほどに遥かに優勢な兵数をもつ敵によって圧倒されないかぎり、ほとんどどんな守備隊も正面攻撃に対しては城を防衛することができた。それほど大きな攻撃の兵力は稀にしか集めることができなかった。それゆえ、よりふつうの、より経済的な方法は城を封鎖し、守備隊を飢えさせて降服させることだった。だが、これを実施するのも容易な業ではなかった。食糧の蓄えの良好な城は数か月の攻城にも耐えることができ、攻囲側は要塞をそれだけ長く包囲するのにかなりの物資を保持しなければならかった。慣例と協定によって定められた軍務範囲は勝利の可能性を少なくした。それに加えて、騎士は攻囲戦のために訓練されておらず、攻囲戦を特別に名誉ある戦闘のかたちとは考えていなかった。結果として攻囲軍はたいてい貴族ではない傭兵から成っており、高い経費を要した。そして、流動性は封建君主にとって保持される富の特質ではなかったため、そうした軍は戦場に長く留まることができなかった。かなりの流動性ある富の供給源をもっていた国王ですら、彼の資金を馬鹿げた長期攻囲戦に費やすことはなかった。

 攻囲が始まると、効力をもつ規則はあまりに多大な痛手や惨劇を呼び込む結末を宣告した。城はたいてい偉大な君主の代理としての下級貴族の城代によって防御されていた。城代は君主の敵から城を守らねばならなかった。そして、もし彼が敵に降服したら名誉を穢したことになる。しかし、防御側が武装兵によって奇襲されたら、そして、それゆえに彼らが長期の包囲攻撃に堪えるだけに必要な糧食を保持していなかったなら、城代は彼の上官(主君)に知らせるため3日間の停戦を得ることができた。君主は救援のために軍隊を連れてくることができたが、城代も君主のどちらもその休戦を利して城に糧食補給することはできなかった。もし君主が救援を用意できなかったなら、城代は汚名を蒙ることなく城を明け渡すことができた。

 こうした戦いにおける賭金は往々にして高くついた。たとえば1150年前後でジョン・マーシャルという名のイングランド下級貴族が幾つかの城をヘンリー一世の娘のマティルダ・アンジューの代理として守っていた。1135年にマティルダとヘンリーが死去したとき、イングランド王位を簒奪したブロワのステファンの乱が起きた間にステファンはジョンの城の一つを包囲した。ジョンは休戦を求め、マティルダの代理人に告知する時間のため、それを延長した。もちろん、彼は城に糧食を補給するのは許されなかった。そして、ジョンがそうしないことを保証するために、自分の四男で当時およそ4才のウィリアムをステファンに人質として引き渡した。もしジョンが城に糧食を補給したら、ステファンはウィリアムを絞首刑にするだろう。だが、ジョンは城に糧食を給してしまった。ジョンの規則破りは、ステファンにより他の違反が犯される結果となった。ステファンは人質を絞首刑にしなかった。そして、結局のところ、子供は父親に返された。こうした種類の寛容さはステファンの部下への支配力を弱めることにつながった。中世貴族の世界においてはこうしたロマンチズムの入る余地はほとんどなかったのである。

 ウィリアム王の生涯は12世紀の騎士の生涯の型を説明するための優れた伝達手段である。彼の父はヘンリー一世の式部官であり、その職務がらジョン・マーシャルの名をもっていた。その職務は以前こそ王家の厩舎番に関連した低い地位のものだった。小領主たちもまた式部官であった。しかし、それは仕事よりもむしろ肩書として名誉ある地位になった。ジョンは王室の食糧供給を監督した。ヘンリーの死後、ジョンはまさしく城内で意見具申を担当する役職に就いた。彼は息子の犠牲を伴う一つの要求より以上に、女伯爵マティルダの忠実な臣下となった。ジョンはおそらくウィリアムはどのみち小さな将来しかないだろうと判断した。ジョンの4才の男子ウィリアムが父の式部官のような地位を相続することは期待できなかった。そして、土地をもたない騎士としての道を進むか、それとは別の職業を選択するかしなければならなかった。それは少年が青年期に達して幾らかの運動能力を表わすことで判る。そして、ウィリアムは約8才になったとき、騎士身分としての訓練を始めた。

 ウィリアムはすでに乗馬を習っていた。そして、彼はすぐに巨大な力強い軍用馬の制御と騎士の武器使用のための根気強い訓練を開始した。この教育のため、彼はノルマン人の従兄、広大な土地を所有しているタンカーヒルのウィリアム男爵の許に送られた。土地を相続するか否かの騎士身分を運命づけられた息子は慣例として彼の父の主人の家か、それに関係するより高い地位の家に送られた。若年時代の大部分は乗馬訓練と槍・剣技法、そして他の武器を使う訓練に明け暮れした。標的は野原に立てられ、少年たちは騎士の監督下でそれに向かって馬に乗った。その標的にはだいたい中央から外に伸びる腕の端にかかった球に釘が打ちつけてある。そして、中央を打ち外すと回るのである。失敗した少年は馬に乗っているために揺れる球の後ろから自分を打たないように素早く回避する方法を学ばなければならない。その仕掛けはある狙いを正しく合わせ、障害物の強打を避けるために必要なしなやかな動作を発達させるために設計された。近世の軍隊では兵士は14週から6か月までの区々な期間で歩兵の戦闘訓練をする。11、12世紀の騎士の訓練はおよそ12~13年を費やすが、もちろん騎士は彼らの職務の間じゅう、熱意と技術を持続しなければならなかった。ウィリアムのような若い少年は身体を鍛錬する合間に使用人として働いた。彼は高貴な若者としての地位に見合った家で給仕すると同時に雑役を果たした。彼が十代に達したとき、もし彼ができるならば、君主の騎士付きの従者の地位に移った。もし彼が幸運ならば、彼の主君に仕えるまでするであろう。彼は給仕を続けるか、そのうえに良好な状態で武器や甲冑を維持し、馬の世話をおこない、戦場では主君騎士の従者として付き添わねばならなかった。戦場で従者は武器の取り換えをおこない、手綱や鞍の固定化を扶け、新しい馬を引き連れ、主君が危難に襲われ倒されたり傷つけられたり、また、別の危険に晒されたりしたとき、主君が捕虜になるのを防ぐことになる。主君家の騎士たちは少年や従者たちに戦場内外での騎士らしい行為の規則を教え、彼らが立ち入る身分の意義を徐々に教え込んだ。その教育は成長期における時間のすべてを費やした。本を習う余地はなかった。そして、事実上、頭脳を使う生活から離れて未来の騎士となった。それは強壮な人間の集中した訓練であり、ふつうは強く鍛えあげられた無知な人間をつくりだすことになった。

 ウィリアムは戦闘の前夜、遂に騎士になった。タンカーヒルのウィリアム男爵が部下を必要とした。若い騎士は21才で騎士をめざしタンカーヒルに来てから13年間も待ったことになる。初陣でウィリアムは従兄がウィリアムを信用したことと、彼の受けた訓練が正しかったことを証明した。彼は大きな成功とともに生涯の職業の第二段階が始まった。しかし、彼の伝記作家はその日にウィリアムが犯した過ちを記録しており、それは伝記作家がウィリアムの余生についての記録にちがいなかった。彼は一対一の格闘で多くの騎士を負かしたが、彼は自分の馬が殺害されたあとでさえ、いかなる馬も人々も捕えることができなかった。一日の終りになって彼は勝利をおさめたが、ひどく壊された装具が残され、馬は一頭もいなくなった。騎士の称号を授かったときの高価な外套を売却することによって彼は次の出征のために身支度を整えなければならなかった。戦いの最中にあっても彼は二度とふたたび騎士道経済の必要を無視しなかった。これらの経済学は今では15年間、若者の世界、すなわち諸国遍歴においてウィリアムの支えとなった。

 騎士は諸国遍歴で封建世界のいたる地域を放浪した。12世紀に彼らは競技に参加したり戦争で戦ったり、十字軍を構成するような人々の主力となった。何人かは高貴な男爵の家族に配属させられていたが、家族の騎士でさえ、しばしば独立していた。彼らが競技から戦争へとあちらこちらを旅行するとき、彼らは村人や町民に迷惑をかけた。怠惰と幾らか無礼な特権の意識が彼らの態度の一因となった。多くの騎士の諸国遍歴のための主な収入源は競技の巡回であった。競技はおそらく封建制度と同じぐらい古い歴史をもっていたが、巡回競技は政治的諸条件のために多くの騎士が怠惰に堕する11世紀末頃になるとありふれたものとなった。それらは高貴な家臣の富める後継者によってしばしば編成され導かれた騎士団間でのまがい物の戦闘として始まった。100人もの騎士のチームが本もののように見え、匂い、聞こえ、多くの死傷をもたらした格闘し争いあった。多額の賠償金に相当するほどの人間や装具を入手さえした騎士もいた。競技は幾つかのさまざまな力量のチームを魅きつけたかもしれないが、それはたいてい各チームや騎士がチーム自身や自分自身のためにやる乱闘へと変わっていった。たいていは一日の夜明けから夕暮れ時までという時間の制限や騎士が休息をとり、装具を修理するため退却できる安全な場所があった。それは見物用のスポーツだったかもしれないが、見物人は誰ひとりいなかった。それはロマンチックな文学に受け継がれてきた。観覧席には美しい少女がいて、上品な一対一の馬上槍試合をするといった見世物としての競技イメージは封建時代より後世の作り話である。その時までに競技はゲームとなり純粋主義者の恐怖となっていた。戦闘員はニセの武器を使い、自分を鞍に縛らなかった。教会は何度か競技を禁じたが、効果はなかった。騎士にとって競技は楽しみや利益のあがる源であったし、なぜ聖職者たちがそれらのことについてそれほどに気にかけるのか、彼らは理由がわからなかった。はっきりした道徳や精神的な内容を欠いた規則は騎士の良心にあまり影響を与えなかったようである。