E. カメンカ編「革命のパラダイム」(その8)
M.リュベル著「社会主義とコミューン」 Ⅲ
Maximilien Rubel, Le Socialisme et La Commune
マルクスはこの宣言のほんの一部しか引用していない。彼は主に、プロレタリアートによる権力奪取の概念を発展させるような考え方に興味を懐いた。その頃、マルクスは3月19日から26日かけての週において国民衛兵中央委員会で長い激しい論争が続いた事実を知らなかった。彼は数年後になってリサガレーの『パリ・コミューン』を読んでそれを知った。これらの論争においてわれわれは「自律的コミューン」とか「コミューン連合」とかいう用語を知る。共和派の極左派に属し、2月8日の国民議会選挙で勝利したジャコバン派のE.ミリエールはこの語について警告を発した。
「注意したまえ。もし諸君がこのような旗を翻すならば、政府はパリに向けフランス全土をけしかけるであろうし、私は、1848年革命が弾圧された、致命的な六月暴動の再興を未来に予見する。諸君の謀反は今日こそ勝利した。だが、明日になると、それは破壊されよう。諸君の本日の成功からは可能なかぎり多くの便益を引きだすことを考えたまえ。そして、諸君が小さな前進に満足することを恐れてはならない。私は、諸君が国民議会を離れ、区長が行動の自由をもつことを願うものである。」
ミリエールは第二帝政の最も断固たる反対派の一人であり、ロシュフォールの機関紙『ラ・マルセエーズ』で一種の共産主義的倫理を推進したことがあった。彼は議員ではなかったが、コミューンの諸事件に関与した。これゆえ、彼は戦闘の終わる2日前に逮捕され、裁判なしにパンテオンの階段で射殺されるのを免れなかった。ミリエールがなぜ自分が撃たれねばならないかと尋ねたとき、銃殺隊の指揮官は、自分はミリエールの新聞記事を読んだことがあり、ミリエールが社会を憎悪しているからだと答えた。「そうだ! 私はこの世を憎悪している」とミリエールは答えた。
この世に対する憎悪についていえば、インターナショナル加盟員の裁判で有罪判決を受けたすべての社会主義者に共通する憎悪をミリエールは懐いていた。これら被告の大部分はコミューンでは指導的役割を演ずる宿命にあった。たとえば、ヴァルラン(Varlin)、マロン(Malon)、コンボー(Combault)、アヴリアル(Avrial)、ミュラ(Murat)、ジョアナール(Johannard)、テイス(Theisz)、フランケル(Frankel)などがそうだ。コミューン前・最中における彼の言明と他の証拠から、彼らにとって社会主義とか共産主義とかは根本的に同一観念であり、状況が共通の精神において彼らを行動に駆り立てたことをわれわれは知る。コミューン内の多数派とか少数派とかの分裂は深い教義上の相違から生まれたものではない。その分裂の原因は主に、コミューンの実在と継続を確保するのに必要な当面の政策の考え方に根ざすものである。p.41 ギュスターヴ・ルフランセ(Gustave Lefrançais)とジュール・アンドリュー(Jules Andrieu)はともにコミューンの官吏であり、共に多数派に属した人物であったが、このことを明確に理解していた。5月1日に少数派はコミューンの未来を擁護するために公安委員会の設置に反対票を投じた。コミューンのジャコバン派の議員は大革命を振り返りつつ、1793年の国民公会に創設された公安委員会が当時のコミューンに反対してつくられたという事実を忘れ、限定されたこのような独裁に賛成した。以前の公安委員会はじっさい、コミューンの影響を傷つけ、その最も重要なメンバーをギロチン台に送った。ルフランセは公安委員会の設置に反対票を投じるのを正当化するために1871年5月20日の有権者に向かって演説をしたとき、多数派も少数派も同じ目標をもっていることを強調した。彼らはともに共和政を強化し、労働に対し労働が負うその社会的優越を与える経済的改良を達成することを望んだのである。彼が言うには、多数派と少数派の分裂はこの目標を達成するにあたって使う手段についての相違のみに因る。コミューンの終焉の近いことを知っていたルフランセは彼の弁論を次の文言で締めくくった。
「われわれはおそらく後にわが不明確な個人に降りかかる判定に関わっていない。われわれと多数派の間に政治的立場の相違があると判ったとき、われわれはこの判別をだれかを問い詰めたり、誰かを誉めそやしたりするために使おうとしたのではない。後になってコミューンが敗北したとき、人々が今日までコミューンについて与えられている像が正しいものではないことを知るようにするため、意見の相違を表明したのだ。コミューンがその基礎を負う諸原理がその敵が準備した墓から栄光と勝利をもって立ちあがれるように思いから、われわれの見地を表明したのである。」
コミューンの社会主義は今日なお体系的に研究されていない。私には2つの出版物がコミュ―ンの教義を理解するうえで特に重要であると思う。1つはG.ルフランセの『1871年のパリにおけるコミューン運動の経験』である。これはコミューンの壊滅から数か月後のスイスで刊行された。もう1つの著作はJ.アンドリューの論考「1871年のコミューン史のための研究ノートNotes pour server à l’histoire de la Commune de Paris en 1871」であり、それはまもなくパリで出版される予定にある。
ルフランセが弁護するコミューン革命は諸個人と地方のグループにその政治的・社会的関心を直接に表明する権利 ― これはこれまで政府に簒奪されていた権利だが ― の復活を目標とした。ルフランセは起筆に際し次のように述べている。
「1789年以降のフランスは現代社会の過去と未来を支配する2つの選択肢の間で引き裂かれた。これらの選択肢は組織と法律であり、換言すれば、一方の極における権力の恣意的行使、他方の極における法律を通じての正義の成就である。法律は権力の利害を表現させ、したがって、真実の社会秩序に損失を与えるのではなく、すべての市民の保証とならねばならない。」
教師の息子として生まれ、独学を経てパリ市役所に勤務するようになり、民衆歌謡を愛好し、彼自身詩人でもあったジュール・アンドリューはコミューン期には公共サービスの代表となった。彼の前掲「研究ノート」の理論的な章において彼は、労働の大義は中産階級、すなわちあらゆる階級の混合点で生まれた人々の間における最上のチャンピオンを見出したと説明する。このような人々は社会的正義への情熱をもつ。中産階級の急進派は社会主義者だったが、職業的な革命派ではない。彼はスタートの足場を現実の条件にとる革新派である。しかし、彼は革命的であるともに保守的でもある。彼は制度を破壊する一方、改変させる。アンドリューは、これがどんな種類の社会主義であるかを問う。その社会主義は預言者としてフーリエ、サン=シモンまたはプルードンをもつのであろうか? 彼は答えて言う。
p.42 「これら彼らの才能、彼らの人類愛、彼らが現代思想の流れに乗りださせた非常に多くの数の健全な思想のどれもわれわれは否定しない。しかし、独立急進派はどのような特殊な理論に対しても自らを従属させることができない。社会改革はできあいのものとして宣言することはできないし、いかなるたった一人の者の頭脳から十分に武装したミネルヴァとして出陣するものでもないだろう。」
アンドリューにとって最も重要なことは政治的改良だった。彼は中央集権化して脱中央集権化の矛盾を解消する法律を求める。彼は動物王国から類推することによって彼の言ういわゆる社会生理学を略述する。家族は彼にとって社会的原型質である。その基本的要素である社会でのコミューンであり、コミューンの仕事は全人のための物理的安全を確保することである。そして、その後に位置するのが県であり、次いで国家となる。コミューン、県、国民がそれぞれ別個の立法分野をもち、それぞれの権利・義務は同盟のリスクを阻止するというその根本的プログラムで明確にされなくてはならない。コミューンはそのコミューン評議会を選出すべきである。連合したコミューン評議会は県の評議会を選出しなければならない。普通選挙はこのように組織される。普通選挙というものは、今日それがそうあるような危険な要素ではなくなるであろう。
私は最も大雑把なやり方でのみ、コミューンの社会主義的意識を述べ立てる時間を割いた。p.43 私は、コミューンの従僕たちが闘争において ― 彼らにとってすべて共同のゴールをめざしての闘争において ― 表明した思想と概念の豊かさを明らかにしたい。就中、彼は「自由なパリ」を出発点として欲した。たとえ彼らがゴールに到達できなかったとしても、彼らはその個人的社会観の自由な表明を通して、当時生みだされた唯一の事がらをもたらした。彼の思想と行動は教訓モデルをもってわれわれに迫る。それらはわれわれに社会主義と労働階級運動史が殉教の永遠の記録に転換されるようなことがなかったとしたら、何が回避されたかについて語りかける。