J.R.ショタール著「コミューンと地方のイメージ」(その1) | matsui michiakiのブログ

matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.R.ショタール著「コミューンと地方のイメージ」(その1)

J.R.Chotard, La Commune et l’Opnion de la Province; le Cas du Phare de la Loire, Images of the Commune ed., by James A.Leite

 

「私はパリを自由都市に導く意向を公式化した。… なぜというに、前に進むことのみを願うパリと、安逸の夢を貪って邪魔だてされないことのみを求める田舎者、貴族、ブルジョアと農民のあいだに気質の非両立性があったからである。… これまでパリが樹立した新政府をつねに転覆してきたのは地方である。それから数年経ってパリは地方にまた同様のものを与え、諸県の代議士が地方に課すのに成功した権力を地に倒したのも真実である。そういうわけでわれわれは、首都がつくる物を解体するのが地方人であり、地方人がうち立てたものを解体するのが首都であるという奇妙なこうした事実の前に出くわすのだ。

 パリは骨の髄まで民主的であり、地方は根っから反動的である。このような場合、どうすべきなのか? 前者が後者の改宗を望むことは可能か? 興味深い誤謬、完全な幻想。地方はパリが保守主義に動かないことを望む以上に、民主化されることを、そのような嗜好を退けてきた。したがって、そこには2つの逆行する流れがあり、その激突は災難のみを導くことになる。

 以上は、1871年3月18日に地方の一都市の新聞における一人の論説記者の見解である。その仕事の逆説と称賛は明らかに何ら予言的主張を含んでいない。それはむしろ、2月の(国民)議会選挙の後の共和主義的怨念を表明しているのだ。p.162 それはまた、一種の伝統的にダイナミックな役割への祈願が込められている。その展開とその表現において1871年のコミューンが今度はパリと国の残りの地方の間の古い敵愾心に対して独特な堅さを与える。

 この敵対関係は相違というよりは両権力間のズレに起因する。第一は経済的なズレがそれである。すなわち、19世紀においてそのズレはパリをして、なおまだ極めて農村的なフランスの真只中において、多様な活動をもつ工業的首都とした。ヨーロッパで第二の大都市の市民と伝統的な田舎者が支配する地方人の間の文化的なズレ。パリ市民と地方人の間の政治的ズレ。前者が3度におよぶ革命の直接的張本人であるのに対し、後者は非行動的な立会人としてありつづけたズレ。パリはフランスの唯一の大都市ではなかったが、その大きさによって、その成長率によって、そこに横たわる都市計画的諸問題によって、それはパリ人口のために地方の生活とはまったく異なった生活環境を提供してきた。最後に、もう少しだけ溝を掘るためには最近の歴史に遡る必要があろう。その長さと執拗さによって攻囲は首都住民に対し、戦争の有為転変を最も直接的に味わわせ、国の残りの地方に対して一種の政治的優越心をもつ印象を放つことになった。

 この判断に直面した地方において人々は一致していなかった。或る者はそこに堪えがたい主張を見出し、また或る者はそこに真実の単純な証拠を見出した。

 パリの委員会は直接的行動を起こさなかった。3月29日に創設された外交を受けもつ局はこの時にすでに消失していた偶発的な支部に影響を与えることができない。他方、ティエール製の行動はパリの幾つかの宣言が地方の世論に到達するのを妨げる。したがって、幾つかの都市のその後における動揺にもかかわらず、地方の大衆はパリの政治的影響から遮断されたままの状態にあった。ジュール・ゲード(Jules Guede)が書いているように、「地方に歓迎されたのは、社会主義の面というよりはコミューンの政治的側面つまり共和政と都市自治のたのコミューンの要求であった」、と。パリは最後の局面においても孤立したままだった。

 しかし、第三の思潮がコミュナールに対し幾つかの点で多くの批判を浴びせながらも彼らに合流したのだが、それは共和派の思潮である。共和主義世論はp.164 フランス人口の広範な社会層を代表しており、1871年4月30日の市議会選挙は地方におけるその重要性を証明する。数十年もの間、野党側にまわることを余儀なくされたため、共和派は積極的関心をもって政体の性格そのものが不鮮明であるという過渡期の現実を見守る。このような期待観が共和派世論に対し、あいまいなニュアンスを投じる。連続的な政治危機によって教育された共和派は新しい一団の人々や彼らがついに被った影響に軽々しく信をおかないことを学びとっていた。ある時は故意に言い落しをし、またある時は居座りつづける政府に好意的な素振りを示し、彼らは特に奥深い方向を探ろうとつとめる。或る新聞の分析は期待、希望、特に世間でいう「共和党」といわれるものの特徴的な地位を追跡するのを可能にする。

 

地方における共和派新聞の見解

 ブルターニュのナントで編集された『ロワールの灯台Le Phare de la Loire』紙は興味深い代表的なケースを提供する。王政復古期の初めに創刊された同日刊紙はすでに1870~71年には地方紙の中で傑出した存在だった。不動の名声を得ていた同紙は、その当時、独占的位置を占めていなかった。同紙はナントの読者を他の3つの新聞と分有していた。そのなかでカトリック正統王朝派の新聞『人民の希望L’Espérance du peuple』が『ロワールの灯台』の恒常的なライバルであり、しばしば引用され論駁された。共和派の同紙はその売れ行きの良さと過去の政治制度への不満ではなく、むしろ1850年以降、町が経験した経済的発展に負っていた。同紙は地方ブルジョアジーの中に、固定的で財政的に十分確固たる読者を見出していた。じっさい、たとえ1848年の革命後、ナントのブルジョアジーがカトリック教会に近づいたとしても、彼らはつねに王統的なあらゆる形式と保証人を排除する扇動的グループの幹部とメンバーを提供しつづけている。医師ゲパン(Guépin)と弁護士ワルデック=ルソー(Waldeck-Rousseau)はその中で最も著名な人物であった。

 『ロワールの灯台』は政治新聞であるとともに情報新聞でもある。幾つかの状況下で同紙はある種の信条から、そのイデオロギー的に主だった保証人と経歴を想起させる。かくて、1871年3月中旬という不安定な時期に同紙は変更しない立場を明らかにした。編集主幹は言う。

 「『ロワールの灯台』は国の政治史の各時期を特徴づける嵐と騒動の真只中で年老いてしまった。同紙は反動諸勢力が民主主義思想や急進的思想の欠如のゆえに、この奥深い思想を守る者たちを潰そうとする重圧の下で憎悪と迫害の割り前を受けた。同紙は長期に亘る事件の経験によってその固有の党派の欠陥の試練によって成熟した確信、専制政治の運命の源泉、フランスにおける自由の敵の行動手段、わが国における共和政の存在の条件等をもって、これらの試練を脱したのである。」

 情報紙としての『ロワールの灯台』は時局に関するルポルタージュを通じて厳格な客観性への気遣いを示す。たとえば1870年9月5日・6日号は数ページを割いてパリの3日・4日に巻き起こった出来事を事細かに描写した。同紙は同じようなやり方で3月18日の事件を報告するため、これうぇお1871年3月21日号で取りあげる。同紙は非常に多くのパリの新聞の抜粋から引用し、その読者のために首都の騒動の委細を尽くした一覧表をつくる。同紙はしばしば記録、通信社の至急報、公的速報を公表する。4月と5月には同紙はヴェルサイユ政府とコミューンの公的新聞の抜粋を複製する。同紙は幾つかの矛盾を冒したり、これこれの党派の虚偽宣言を載せたりもする。かくて3月10日、同紙は述べる。「パリの諸紙はボルドーのカトリック系新聞から、パリで蜂起が起きたこと、街路で血が流れたこと、左岸が暴徒によって占拠され、同じ羽根をもつ他のあひるがガロンヌ川の河岸を発ったこと、などを用いてまったく驚いている」と。

 これらすべての要素は完璧であり、徹底的であろうとする新聞における時局説明のやり方を示すものである。それ自身、一種の普遍性を要求する。同紙がその副題に「政治的、文学的、商業的な日刊紙」とを標榜するときは特にそうである。したがって、『ロワールの灯台』はそれが望んでいるように、すべての者の新聞であるだろうか? 株式取引所、港湾、開運のために割かれたページは商人層の関心の的であった。ほとんどいつも第一面の下段にあてられている文芸欄はもっと庶民的な読者層の関心を引くことを狙ったものである。しかし、全体の外観は真面目で厳格な印象を放つ。その7つのコラムが漫画のために割かれることはけっしてなく、クロッキーが描かれることも稀である。しかも、描かれる場合でも、1870年秋季の戦闘を描く極めて簡素なものである。印刷術の緻密な傾向を陽気にするためのものではなかった。

 1870年秋から1871年6月までに展開した諸事件がお気に入りの主題であり、反教権主義的論題と共和主義の擁護を取りあげるのも同紙であった。じっさい、ナントの新聞にとってパリ・コミューンは単なる一事件というよりは、帝政から引き継いだ危機の長期の激発という意味あいがあった。3月18日のパリにおける主役たちと同様、『ロワールの灯台』の論説委員は現象の全体に反作用を及ぼす。1870年9月から次の3月までの間、あらゆる傾向の同じ共和主義者は隣りあった地位において結合していた。p.167 彼らにとって樹立すべき政体の性格と愛国的名誉について疑う余地はなかったのだ。

  『ロワールの灯台』は好戦主義を煽る新聞ではなかった。1870年6月、同紙は注目する価値のある記事を掲載した。すなわち、「わが公報の怒気を含んだ宣言を前にしてドイツの新聞はまったく静かである」、と。だが、戦争が始まると、同紙は敗北主義を排する毅然とした論調に変わる。「フランス西部および南部の人々よ、準備しよう」、と。9月末、論説委員の一人は叫ぶ。そして1871年1月、絶望的な雰囲気は同紙のコラムには表われない。

 この時期を通して『ロワールの灯台』紙は首都の意見にほとんど近い意見を発表した。じっさい、共和派のジャーナリストにとってパリは進歩主義の思潮を代表する。ナントの論説委員たちは9月4日の門出を熱狂的に祝う。「立ち上がれ。フランス全体よ、立ち上がれ」という見出しで、彼らは感動的抒情詩を掲げる。

 「厳粛荘重な時、ついに至れり。政府の中で最も悲しむべき政府のせいで敗れ、国は最後に自力で救うことを願わねばならない。… 官僚制の形式主義はもうたくさんだ。至高な法、それは国の安寧であり、この安寧は総武装に依存する。やがて明らかになろう。パリ、すなわちフランスのこの首府、この心臓 ― なぜなら、首都の大多数は結局のところ、諸県から来た家族からのみ構成されているから ― パリすなわちフランスのこの首府はもはや国土の残りの部分と物理的に通信できなくなろうが、考えるところは同一である。偉大なシテは、英雄的に侵入の猛り狂った攻撃に抵抗するであろう。したがって、国民の名誉の旗を堅持するであろう。89県の息子たちは18年になろうとする卑劣さの後に、その父祖の光栄ある足跡を見出し、今日、聖なる町の救出に駆けつけるであろう。また、わが聖なる土地から外敵の憎らしい出没を粛清するのを手伝うであろう。」

 この記事はナントの共和派にとって愛国心と共和主義の理想がいかにパリのヘゲモニーと分離できないかを示している。

 それ以来、パリの運命と戦争の結末は、『ロワールの灯台』が提案する現状分析のかたちで結合される。パリは外敵に立ち向かう英雄として立ち現れる。論説委員の一人は情熱を込めてビスマルクの言葉を取りあげつつ称号を付与する。

 「パリは沸騰している。パリの沸騰は常軌を逸した要素を分解し、それらを無に帰す結果を導き、この人間集団の分子に近づくもう一つの結果は今日、フランスの心臓を代表する。思想と感情が結合されるのみならず、接触により、そして崇高な危機という圧力の下で愛国主義の影響の下で強烈に高められる。p.168 かくして、人類の名誉と威信が育まれる。然り! パリは沸騰している。89年の再版、改訂され修正され、増補された第2版は世界の進歩のために、それを受け入れる準備の整った光栄ある大窯から脱出するであろう。

 1月30日の休戦協定の告知は高揚された雰囲気の中で、衰弱に似た感情を醸成する。記事の闘いは続くが、重点は今や政治プランのほうに傾く。共和派としての『ロワールの灯台』のチームは普通選挙に賛成し、1848年の経験が同紙をして慎重な姿勢をとらせたのだ。すでに1870年9月、編集主幹は「農村の選挙人に対して」この問題についてこう訴えかけた。

 「諸君は卑劣にも裏切られたのだ。われわれは諸君を恨むことはできない。われわれは諸君の誤謬を正すべく友情の念にもとづき招待する。それはなおまた正す余地が残っているからだ。

 農民らは信心深く、いたずらに聖職者が幅を利かせている。われわれが立ち向かうのは信仰の利用であり、けっして宗教そのものではない。合衆国、スイスではカトリック教徒、プロテスタント、ユダヤ教徒 … 等々が一つの共和主義政府の下で生活しているが、彼らの信仰はそれぞれ尊重されている。1848年革命と共和政宣言後のフランスでもかつて同様であった。農村の選挙民は賢明にも共和政体を維持すべく固く決意した代表者に投じるならば、わが国においてそれは可能であろう。」