C. エーブラムスキー著「マルクスの国家理念」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

C. エーブラムスキー著「マルクスの国家理念― 共産党宣言からフランスの内乱まで」(その2)

 

 階級のない社会に関する彼の素描を完成するために、そして、人民がいかにして力の組織としての国家の持続的存在なしに未来においてそれを生みだすのかを説明するために、マルクスは次のようなビジョンをつけ加えた。それには彼自身の分析にもとづく史的体験によっては何ら説明されることはなく、ユートピアの領域に属するものでなければならない。「階級と階級的敵愾心をもつブルジョア社会の代わりに、われわれは一つの社会を、すなわち、その中では各人の自由な発展がすべての者の自由な発展のための条件となりうるような社会をもつであろう。」調停者としてのマルクスはこの点においてエドウィン・フーリエから導きだした強烈なユートピア的要素を保持している他の社会主義者と何ら変わるところがない。

 マルクスが彼のいわゆる来るべき社会革命 ― 彼は自然科学の精細さをもって決定づけられうると信じていた ― のための「科学的原理」を公式化する試みをおこなった1859年になると、マルクスは以下の観念を認めなければならなくなった。すなわち、「その中に伸展の余地をもつすべての生産諸力が発展する以前には、いかなる社会秩序もかつて滅びたためしはない。そして、新しく高度な生産関係はそれの存在の物的条件が旧社会それ自体の胎内において成熟する以前においてはけっして生じない」、と。ふつうに死すべき存在としてのわれわれ、これらすべての潜在的な勢力は社会革命が発展する時をどのようにして知ることができるか? ロシア、中国またはヴェトナムなどは、社会革命の前にあらゆる生産諸力が発達した説得的な実例であるだろうか? 発達した資本主義はこれらの社会にはまったく存在しなかったのだ。こうした結論は政治行動の随意性に導く。さらに、共産諸国における抑圧機関としての国家の消滅の徴候が仮にあるとしたら、どんなもとなるのか? さらに、われわれには難問が数多く与えられている。そうした質問に対しては既存のできあいの回答を与えるのは妥当しない。

p.27   私は『共産党宣言』の基本的哲学的論点の幾つかをスケッチすることから始めよう。なぜというに、この小冊子はそれらの幾つかが高度に抽象的方式で公式化されているにもかかわらず、最も豊かで最も独創的な思想を含むからである。1848~49年の革命はマルクスにとって国家機構、官僚制の役割、軍隊の役割、国家内の対立しあう利害の役割について精細な検討のための機会を提供した。そして、労働者階級の闘争を前進させるために、また、それに幾つかの便益をもたらすために、これらをどのように活用するかの機会ともなった。マルクスは1848~52年の政治的著作においてこれを実行した。これは部分的に彼の初期の見解と重なりあい一方で、また、コミューンの経験から帰結する変化を己に予示するところの、彼の見解の最も重要な哲学的発展でありつづけたのである。

 1850年4~6月の間、マルクスはフランスの1848年の革命の進行過程での敗北をその起源と敗因を細かく分析した。彼はこれより以前の一連の革命はむろん、直近のフランス史を深く研究した。特に彼は、彼が行動の革命派として賞賛していたブランキ派の戦術と著作に最も細かく配慮をはらった。

 1848年革命の敗北してのち日も浅い1850年の春、マルクスとエンゲルスはロンドンにおいて、ブランキの傑出した追随者としてのアダム(Adam)とヴィダル(Vidal)に会い、彼らと一緒に共同行動綱領を起草したが、この綱領に対してドイツの社会主義者カール・シャッパー(Carl Schapper)と、英国のチャーティスト運動家ジョージ・ジュリアン・ハーネー(George Jurian Harney)もまた署名に名を連ねた。その綱領で彼らは既存体制の転覆のための社会革命をもたらすために、そして「プロレタリアートの独裁」を主張するために、妥協することを述べている。数か月後、彼らはもう一つ別の声明を発表した。状況が一変したからという理由で綱領はもはや無効であると述べた。これがマルクスによるプロレタリアートの独裁に関する最初の言及となった。

 この有名な語句の起源は何か? ブオナロッティの追随者の幾人かは、その陰謀家それ自身において、おそらくはベルギーで1830年代のうちに最初に用いられ、その後、フランスのブランキ派に引き継がれたようだ。この語句は1838~39年ごろに彼らによって明瞭に使用された。われわれはマルクスの著作ではこの時までこの用語を見出さない。1850年3月に書かれた著名な「共産主義者同盟の檄文」の中にすら、この公式は表われていない。その代わり、マルクスはこのような語句を「プロレタリアートが … 世界のすべての有力国において … 国家権力を掌握するまでの間永続的革命を実行するために」用いたのである。社会革命の最初の段階におけるさまざまな自由主義的で小ブルジョア的政党に対して、しだいにドラスティックな施策を要求することにより、労働者が圧力をかけていく、とマルクスは言う。だが、これらの政党はこれを実行に移すことができない。「労働者は都市委員会の形態であろうが、… 市評議会ないしは労働者クラブの形態であろうが、p.28 自己の革命政府 … を確立するために武装しなければならない。」すべてこの目的のために小ブルジョアジーの日和見的要素に絶えず圧力をかけなければならない。彼が前出の「檄文」で数えあげた要求は『共産党宣言』の第2章の末尾部分において素描したような104条と密接に相応する。

 「プロレタリアートの独裁」の概念を論じるにあたって、マルクスは「パリのプロレタリアートがブルジョアジーによりどのようにして六月暴動に追い込まれたか」を指摘した。十分にそれへの備えもなく、そして、これが崩壊の出発点なのだが、その当時、労働者は独力ではブルジョアジーを転覆するほど強力ではなかった。当時、革命的行動派は今や運動の主導権を握っており、マルクスは次のことを要求した。「形態こそ豊富だが、内容においてまだ吝嗇気味でブルジョア的な要求の代わりに、… ブルジョアジーの転覆、労働者階級の独裁!といった古い革命的スローガンが現れた。」当時のパリで用いられるような「スローガン」という語の使用がここで出てくるのは注目に値する。

 この用語の起源についてなおまだ疑いがある場合、マルクスがこの用語を同じテクスト、すなわち『フランスの内乱』でも用いていることに目を向けてみよう。彼はこの著作中で、マルクスのいわゆる「空想的社会主義」と「革命的社会主義」の理論に対抗するフランスの支配的サークルで受容された議論を長ったらしい文でもって説明している。当時の種々の社会主義理論に対するフランスのブルジョア新聞の議論を大雑把に批評したのち、かれは2つの社会主義グループを選り抜いた。「空想的社会主義」― 彼はルイ・ブランとその仲間を念頭に置く ― を標榜する彼らは、「革命的階級闘争」とごく少数の陰謀家の奸計ないしは偉大な感傷癖によりその要求条件を唾棄するよう求める。プロレタリアートはこの社会主義を小ブルジョアに引き渡す。そして、第二のグループに属する称賛に値するグループ ― ブルジョア新聞によっては「無政府主義党」と位置づけられる ― についてマルクスの見解では「革命的社会主義」と位置づけられる。彼はこれに賛同する。「プロレタリアートはますます革命的社会主義のまわりに集結し、ブルジョアジーはこれを指してブランキ派の名前を与えた。『この社会主義は革命の永続性、プロレタリアの階級的独裁の宣言である。』」マルクスによれば、独裁は「階級区分の廃棄、階級区分が依存するあらゆる関係の廃棄、p.29 これらは生産諸力の関係が照応するすべての社会思想の革命化に到るまでの必要な経過点」である。この言明は『共産党宣言』の第2章の最終部分を詳細に言い換えたものである。

 この点についてさらに2つの論点を指摘できるだろう。第一に、その当時のフランスの歴史的発展においてブランキはマルクスにとって一貫した革命家のモデルだった。それはちょうどパリ・コミューン時にブランキがマルクスにとって意中の人であったのと同じように。コミューン派は人質のダルボア大司教と投獄中のブランキの交換を要求した。しかし、ティエールはこの要求を拒絶した。マルクスは『フランスの内乱』の中で皮肉を込めてこう評した。「ティエールは、ブランキがコミューンの首魁となることを承知していた。それに対し大司教のほうは遺骸の形でティエールの目的にいちばん適うであろう」と。第二に、「プロレタリアートの革命的独裁」の公式はマルクスの著作中で再び登場するのは、25年後に書かれた前出『ゴータ綱領批判』の中の用語とほとんど同じものである。

 マルクスが1851年12月から1852年3月まで、ルイ・ボナパルトのクーデタの分析をおこなったとき、彼は国家の執行権力が官僚制とその武装した軍隊を通して強大化していたこと、さらにその権力は唯一の目的すなわち人民を弾圧するための目的をもっていることを指摘した。国家に関して将来の社会革命の仕事はこれまでの革命とは共通項をもたない。「これまでの革命はそれをうち壊すのではなく、この装置を完成したのである」からだ。かくしてわれわれは以下のごとく理解する。マルクスが提案した諸変化 ― コミューンの経験ののち、『共産党宣言』に挿入すべく提案した諸変化 ― はすでに1848年革命の敗北の経験の後に事に想念に上っていたことになる。レーニンのように鋭いマルクスの弟子ですら、この点について気がつかなかったのは驚くべきことである。

 1850~75年の間に「プロレタリアート独裁」という用語はマルクスの視界には僅かながらもう一度だけ、しかももっと驚くべきやり方で表われる。友人のジョセフ・ウェデメヤーに宛てた1852年の書簡の中で34才の革命家マルクスは社会主義理論への彼の特殊な独創的な貢献になしうるべきと彼が考えたところを指示した。マルクスは階級闘争を発見したとは主張しなかった。ブルジョア的歴史家や経済学者は彼よりずっと以前にこれをなしていた。マルクスは書いている。「私がなしたこと、それは新しいものであるが、以下のことを示すことであった。諸階級の存在は生産の発展における特殊な歴史的側面と密接に関連していること、この独裁そのものはすべての階級の廃絶と階級のない社会への移行期から成っている」、と。しかし、彼はプロレタリアート独裁の正確な意味を定義をしていない。マルクスは十分知っており、それでは彼の著作『フランスにおける階級闘争』および『ブリュメール18日』の中でp.30 全体としていかなる階級も永遠に統治することはないと明確に述べている。種々さまざまな利害を代表する諸グループは大多数者の暗黙の是認のうちに、そして、しばしば多数派の意に反して権力の座に就く。唯一の可能な結論 ―「プロレタリアートの独裁」に関する彼の概念から引きだしうる ― はブルジョアジーについて述べた『共産党宣言』の初期の抽象的公式である。つまり、「近代国家の執行部は全ブルジョアジーの共同事業をおこなうための委員会であるにすぎない。」ブルジョアジーの用語をプロレタリアートのそれに置き換えると、この公式はブルジョアジーに適用できるのと同様にプロレタリアートにも適用できるし、有効でもあり、無効でもある。

 マルクスはエンゲルスがその後何回もそれを使用しているのと対照的に、パリ・コミューンに関してはこの公式をけっして使わなかった。マルクスはそうすることができなかった。パリ・コミューンは「あくまで新しい社会の光栄ある先駆者」であるにすぎず、根本的には政治用語の空想的計画を語り、首脳部と、一貫した政策またはイデオロギーを欠くさまざまな矛盾しあうグループとのごた混ぜ状態にあった。マルクスは主張している。もし時間がありさえすれば、コミューンがこのような社会に向かって発展したかもしれないし、最初からそれは破滅に向かうべく運命づけられていた。マルクスはこのことを理解していたし、それゆえにこそ沈黙を守っていたのだ。

 『ゴータ綱領批判』でマルクスがコミューンの例にふれなかったのに対し、エンゲルスがアウグスト・ベーベル宛ての1873年3月18日の書簡中で、「コミューンに関心を懐いたのは言葉のうえだけの関心以上のものがある。マルクスの鋭敏な思想と、エンゲルスにより普及され単純化された説明とのあいだに横たわる多くの差異をここでふれる場ではないであろう。明らかにマルクスはパリ・コミューンについて奥深く考察してきており、事件の10年後に、彼は『フランスの内乱』に記された見解とはまったく異なったコミューン見解を表明した。オランダの無政府主義者ドメーラ・ニューウエンフイス宛ての1881年3月8日の書簡中でマルクスはこう述べている。「おそらくキミはコミューンに注意を振り向けさせようとするだろう。しかし、これが例外的状況下におかれた1都市の蜂起であるにすぎなかったという事実を別とすれば、コミューンの多数派はけっして賢明な社会主義者でもなかったし、また、そうである可能性をもたなかった。しかしながら、僅かばかりの常識で考えれば、コミューンは住民の多数にとって有益なヴェルサイユとの妥協に到達しえたにすぎないのだ。それこそが当時にあって到達しうる唯一の事がらであるのだ。」

 幾人かのマルクスのための弁解者は彼を普通選挙の擁護者「民主主義の闘い」の擁護者として主張するが、私には以下のように思えて仕方がない。つまり、彼は生涯を通じて国家の中央集権的教義に対して深く忠実であり、彼はその観念をヘーゲルから継承し、それを彼の革命的目的のために変換したのである、と。p.31 数々の自由主義者や次の引用文「普通選挙はほとんどその使命を満たさなかった」によって人類に与えられた一種の万能薬として彼は普通選挙への態度を位置づけていた。人民の大多数は、普通選挙こそが1革命党員が奉仕しうるすべてであるという発展の学校を通りぬけていた。それは一つの革命または反動によって拒絶されねばならなかった。この思考はマルクスの著作において何度も見出される。彼は革命の問題や、それがそこへ導かれるべき独裁に関する初期の超革命的見地に依然として忠実であった。

 

【終わり】