M. ジョンストン著「コミューンとマルクスのプロレタリアート独裁」(その4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

M. ジョンストン著「コミューンとマルクスのプロレタリアート独裁」(その4)

Monty Johnstone, The Commune and Marx’s Conception of the Dictatorship of the Proletariat and the Role of the Party

 

中央集権主義と地方権力

 マルクスの『フランスの内乱』は、理論的にプルードン主義に直面したマルクス主義の部分的な後退を代表するものか? あらゆる物事が「小グループ」ないしは「コミューン」― そこでは、それの代わりとして「アソシアシオン」を形成するのであって、国家は存在しない ― に分解されることを要求するフランスのプルードン主義者の見解にマルクスは今や勝利したのか? 原文の厳密な検討をしてみれば、それの表面的でもっともらしさにもかかわらず、そのような結論は導きだせない。

 第一草稿においてマルクスは、フランスでは「自己作用的・自治的コミューン」に組織されることにより「国家の機能」は消失しないかもしれないが、「全体的国家目標に対する少数の機能に縮減されるであろう」ことを示した。講演においてマルクスは強調する。「単一の中央政府のために残された数少ない重要な機能は意図的に誤ってこれまで述べられてきたように、「抑圧されるべきではないが、コミューンによって、したがって厳密に責任をもつ代理人により解除されるにいたる。」そして、彼はつづけて言う。何らかの疑義を挿む余地のある場合、「コミューン憲章はかつてモンテスキューやジロンド派が夢想したように、小さな国家の連盟に細分化する試みである、とこれまで受け取られてきた。ここにおいてはもともと政治的権力によって生みだされた偉大な国民の統一は今や、強力で共同作用をもつ社会的生産となったのである。国家に対するコミューンの敵意は、過度の集権主義に対する古い闘争の誇張された形態と思いちがいされてきた。」さらに、マルクスは明確にする。「結合された共同的社会は共同のプランにもとづいて国民的生産を規制するものとなろう。」そのことによって、『共産党宣言』が重要性を強調してきた経済制度の中央集権化を確保するのだ。

 コミューンがフランスの残りの地方から実質的な支持を得る見通しをもつということはこのようなものである。しかしながら、じっさいパリの革命的制度を失敗すべく運命づけたのはこのような支援の欠如であった。このようなことを念頭におきつつマルクスはニューウェンフイス宛ての書簡中で「その頃のコミューンによってなされうる唯一ことというのは、国民全体に有益なはずのヴェルサイユとの妥協」であった。この言明は、コミューンが本質的にプロレタリアート独裁ではないことを意味するのではなく、未だプロレタリアートの独裁を迎え入れる準備のないフランス国民大多数から支持がないかぎり、コミューンに生き残るチャンスがなかったということのみを意味しているのだ。マルクスが心に描いた妥協はパリの労働者のための民主共和政の枠内において彼らの党を組織し、彼らの見解の多数の国民の支持を取りつける自由と引き換えに、明らかに自治的革命政府としてのコミューンの終幕を意味した。このことはじっさい、1870年9月にマルクスが示した見通しへの回帰であった。このときマルクスは言っている。フランスにおいて政党を組織するために共和政によって不可避的に提供された自由を活用すべきである。このような組織化の後に機会が訪れれば、行動は自然に起るものなのだ」、と。

 マルクスはつねに中央集権の是認の立場を貫いたのだが、コミューン当時もそうだった。しかし、彼にとっては、また、その後のマルクス主義者にとっても同じだが、問題は集権化と非集権化のどちらを選ぶかではなく、両者の適正な均衡を見出すことだった。均衡は不可避的に時代によって、また異なった歴史的時代によって異なるのが通例である。1848~50年当時のマルクスは、小国に浸食された封建反動に対して向けられたドイツのブルジョア民主主義革命の必要十分条件として最も強大で可能な中央集権化を見ていた。フランスでは1871年、事情は反対の性質をもっていた。すでに1852年、『ルイ=ボナパルト、ブリュメール18日』の中でマルクスはフランスのブルジョア国家の「桁外れに突飛な中央集権化」を指摘している。それは「無力な依存、つまり現実の政治体の散漫な無定形」の中に対立物を見出した。「橋梁、学校、農村共同体の共有財産」ですら、社会の成員そのものの活動から運び去られ、政府活動の対象となった。マルクスが封建的分立主義に対するブルジョア民主主義革命に対して懐いたときと同じように、このような官僚制的・資本制的中央集権化に向けられたプロレタリア革命も同様な要求をなさなかったとして、マルクスの首尾一貫性のなさを攻撃するのはほとんど的を外れているようだ。

 コミューンが創始した民主主義的改良は統一的共和国に中央権力を保留する一方で、根本レベルでの最大限のイニシアティブと、民衆参加を可能にする地域的自治の形態を要求した。コミューン綱領、すなわち4月19日のフランス人民に対する宣言はこれらの要素を統合するものだった。コミューンがたった1票の反対意見のみでそれを採択したという事実は、エンゲルスの『フランスの内乱』1891年版への序文における指摘、すなわちプルードン主義者たちが革命過程において彼らの厳密な反中央集権主義から進化し、そして、ブランキ主義者たちがその極端な中央集権的考え方から進化したことを裏づけるものである。マルクスは、「コミューンの絶対的自治」と「偉大な中央集権的行政」の関係の性格が曖昧であるにもかかわらず、「コミューンが発展させる時間的余裕をもたなかった国家的組織の大まかな素描」を描くことができると考えた。この提言は『フランスの内乱』のマルクスの説明に反映される。つまり、彼はこれらの提案を細かく批判的に検討する場とは考えていない。コミューン憲法について大雑把なアウトラインがコミューンの社会的本質によって正当化された、と彼は見なしたからである。すなわち、旧政府機関を「真の自治政府に取り換えること、それはパリと大都市では労働階級の政府となる。」この状態を除けば、「コミューン憲法は不可能性と妄想に終わったであろう。」

 マルクスはごく小さな村落においてさえつくられるような農村コミューンが「各ディストリックの中心都市での代表集会によって彼らの共同事業を実施する国家構造のための提案をおこなった。「これらディストリク集会はさらにパリの国家的派遣部に代表を送ることになろう。各派遣委員はいかなる場合でも罷免可能であって、彼の選挙人の『強制委任』によって縛られる。しかし、マルクスはこの間接的な選挙方法を労働者階級の行政の唯一の可能な方法であると提示したことは一度もなく、彼はじっさい、これらについて再論することはなかった。彼にとって普遍的で永続的な重要事というのは未来社会が広範囲な自治と、下からの発議権をもつ地方自治の諸機関を発展させることだった。かくして1874年ないし1875年に、バクーニンの「国家統制と無政府主義」に関する彼の私的注解において彼はバクーニンの挑戦に直面しているのを見出す。「4千万のドイツ人、4千万のすべてが政府のメンバーであるだろうか。」「いかにも! 問題はコミューン自治とともに始まる。」同様に、コミューンの20年後、ドイツにおける連邦共和政よりもむしろ単一共和政のほうを主張する「社会民主党綱領草案」の中でエンゲルスはその綱領中に、「地方、ディストリクおよびコミューンにおける普通選挙制により選出された官吏を通しての完全な自治」を織り込むべきだと主張した。

 

結 論

 マルクスのコミューンに関する著作は彼の政治的見解におけるどんなドラマティックな変化をも意味しない。しかし、パリの春の革命は国際的関連性についての経験を与えた。この経験があればこそ、資本主義的ならびに封建的国家において見出される政治的疎外に対しての彼の積年の批判において独自的態度をより具体的・積極的なかたちに改めたのである。すでに見たように、これとともにマルクスはプロレタリアートの独裁についての考え方に新次元を付加した。これは必然的に国家の破壊とその国家が徹底的な参加民主主義と交代することを伴った。これは、持続的コントロールと下からの命令のもとでの立法・執行の機能を同時にもつ地方的・国家的レベルの代表者の選出を基礎として直接民主主義を接合するものであった。このような形態は新たな過渡的制度の階級的性格についての適正な表現と防御にとって必要だった。この過渡的体制はマルクスが早くも1843年に嘆いた国家と市民社会の遊離を超越し、階級も国家も存在しない社会に到る道を準備しはじめるのだ。

 72日の生命で潰えたコミューンはこの道を辿るべき最初の段階を示しえたにすぎず、マルクスは、彼がコミューンにおいて認めた諸傾向から幾つかの他の傾向を推論せざるをえなかった。したがって、彼の見解はこの特殊な「モデル」の痕跡から引き出された最初のアウトラインにすぎなかった。それは1871年のフランスの歴史的条件において局限された経験という制限を反映している。それは十分に発展することもなく、国家的基礎ももたなかった ― その生命はおそらく始めから分かっていたようだが ― プロレタリアートの独裁の最初のステージの域を出るものではなかった。したがって、マルクスの解説の多くは大雑把で試論的なスケッチであるにすぎず、その後に起こる革命の光のもとでの発展と豊富化を要した。これらは彼の存命中にはなされることはなかった。とはいえ、マルクス主義者にとってその後の数十年間に精査し、普遍化すべき革命的経験がなかったというわけではない。彼らが資本主義以降の社会をこれら一連の諸事件の光のもとに、特に政党の役割と政争の取り扱いに関連し、さらに一歩前に進めるために上記の事がらを十分になさなかったのは弱点であるといえる。

 だが、百年後、マルクスの真に民主的で反エリート的な、そして反官僚制的な『フランスの内乱』がこのような理論的精密化のための出発点としての関連性を有している。巨大な国家的官僚制 ― 人間を政治的に阻害し、人間から彼の居住する社会に対する実質的防御の力を奪い、彼のあらゆる活動を拘束するところの ― についてのマルクスの恐怖感を反映しつつ、その基礎的思想は高度に原理的な響きをもっている。彼がコミューンのインスピレーションのもとに対置した思想、すなわち、「生産者の自治」「人民の高慢な主人」「いつも公共の監視下に、いつでも罷免できる公僕と取り換えること」も同様である。

 

【おわり】